電車でメイクをすること/「一人ひとりを包むもの」#5(杉田ぱん)

はじめてコスメに触れたのは、たしか6歳のときだったと思う。
母のコスメボックスを開けたときの、パウダリーな香りを覚えている。
1人でそーっと、マリークワントのアイシャドーを指でとる。人差し指にひんやりしたブルーがついてきて、その色が綺麗で、しばらく指を眺めた。瞼に乗せるとそのブルーは、もっと綺麗に発色した。

コスメを肌に乗せるとそのパーツはスポットライトを浴びるんだ、と6歳の私は思った。

あの日から私は、コスメが好きだ。
大人になると毎月なんらかのコスメを買うようになり、顔や身体にそれらを塗ってたのしく遊んできた。

伊勢丹地下二階のビューティーアポセカリーでオーガニックコスメやスキンケアを買うのも好きだし、一階へ上がってNARSの力強いチークやリップ、Paul & Joeのおてんばなパッケージに心躍らせたり、または当たり外れの激しいiHerbを利用しボディクリームの香りや質に一喜一憂するのもたのしい。韓国では、滞在時間のほとんどをオリーブヤングに費やしたといっても過言ではない。

そんなコスメたちは、どんなに綺麗に塗っても必ず落ちる。
リップなんかはご飯を食べたり、お水を飲むとすーっと色を失う。
だから移動中に小さな手鏡をだして、ふたたび気に入っている色を顔に足す。
私は、顔にお気に入りの色が足されるとそれだけで気分がよくなるのを感じた。

たとえばそういうメイクのお直しは、電車の中でもおこなってきた。
ハンカチで汗を拭く、みたいな気分で。
けれど世の中の反応というのは私が想定していたものとは違った。

高校生のとき。
リップに色を足そうと、コスメポーチをガサガサ捜索するとそれだけで、目線を感じた。
軽蔑するような、そういう視線だ。
心臓がひやりとした。
メイクを覚えたばかりの高校生の私にとって、メイクをする自分を他者がどんなまなざしで見つめるのかを強烈に意識した瞬間だった。

ただ、好きな色を唇に塗るのをあなたに見せるだけで、なぜそんな視線を向けられるのか私にはわからなかったが、その目線を今も覚えている。

その後も定期的に電車でのメイクはマナー違反で、下品なのだと忠告されるような機会は訪れた。
「車内でのメイクはみっともない」と鉄道会社が注意喚起の広告を出したこともある。

そのたび、具体的にどんな迷惑や不快感を他者へ与えているんだ?と私はやっぱり疑問だった。

ルースパウダーは飛び散っちゃうから電車には不向きだけど、今塗ってるのってリップだよ?
目の前の席に座っているあなたに具体的にどんな迷惑をかけてるの?

そんな問いに付き合ってくれる人は現れず、「下品だから」とそれだけだけを忠告され続けた。

少なくとも私にとってそれは答えにはならなかった。
そもそも人を上品/下品とみなしてくる感覚がわからないし、わかりたくもない。
人のたのしさや、行動を規制するような言説を大した理由もなく述べてしまえることの方が、私にとってはよっぽど失礼に値する行為だ。

私はそういう言説に出会すたび、悔しくなって「エリザベス女王は、人前で気にせずリップを塗るよ!!!」と思った。

「メイクを完成させてこれなかったことが、だらしないんだよ」という人がいた。

その言葉を聞きながら、「メイクをする」という行為は、その人にとって誰かの状態が未完成であったことを告げる働きがあって、本来は他人のために完璧に身だしなみを整えてから外出をするべきなのに、という苛立ちを抱えているように感じた。

でもさ、少なくとも私は、あなたのために、自分の瞼やまつ毛、眉毛や唇なんかを綺麗な色に塗っているわけじゃない。自分の気分が心地よくなるから、メイクをしている。

もしかしてあなた、自分のためにメイクをしていないことに対して不快感を抱えてる?と問いたくなった。

あんまりにも叩かれる電車でのメイクに私はどうしても納得がいかず、友人を誘い、あえて電車でメイクしたことがある。

私の顔に、素敵な色を乗せるのは私が心地よいからだ。
そう思いながら、リップを塗った。

心からそう思えている瞬間が確かにある。
そしてそう思えない瞬間も。

「メイクをして来て下さい」と求められる機会が存在する世界で、ほんとうに私がメイクをしたい時だけしてきてきたのかと問われれば、そうではないからだ。

めんどくせ〜と思いながら、メイクをした日。支度が間に合わず、電車で済ませることもあった。

それらすべて、どんな日であったとしても、他者が電車でメイクをしていることを放っておける社会を私は求めている。

・著者プロフィール
杉田ぱん
フェミニストでクィアなギャル
Twitter:@p___sp

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