人間にならないためのコルセット(一角獣)

十年前、私はコルセットにはまっていた。

コルセットとは、胴を締めつけて細くみせ、身体の線を強調するための装身具のことだ。

子どものころに親しんだ本のなかでは、コルセットは「着けたくない」ものだった。小説に登場する賢くて自立心旺盛な少女たちは、みんなコルセットを着けるのを嫌がった。コルセットで締め上げた細いウエストが自慢だったというオーストリア皇妃エリーザベトは、美に病的なほどの執着をみせる人物として描かれていた。

映画だってそうだ。「タイタニック」には、主人公のローズが母親にコルセットの紐を引かれて息を詰めるシーンがある。そこで描かれているのは、自由に生きられない上流階級の女性の息苦しさだ。
女性の身体を型に押し込めてきたコルセットは、現在でも「理想的」な身体を手に入れなければならないという強迫観念となって、見えないかたちで残っている。

こういったことをなんとなく理解していながら、子どもの私は、コルセットっていいな、着けてみたいな、と思っていた。それがなぜなのか、今でもクリアに説明することはできない。

ウエストが細ければ美しいという価値観の刷り込みも、もちろんあったと思う。それから、歴史上のものへ抱くロマンティシズムだとか、器具そのものや、それによって変形する身体へのフェティッシュな関心だとか、淡い苦痛への倒錯的ともいえる欲望だとか、おそらくはそのすべてを含んだ思いを抱いて、私はコルセットに憧れた。
そのときにはすでに、自然には起こりえないような状態に身体を加工することへの願望が芽生えていた。ピアスホールを開けたかったし、タトゥーを入れたかったし、人間には絶対に生えてこないような髪色に染めたくて試行錯誤もした。

コルセットを着ける機会が突然訪れたのは、成人してからだった。趣味を通して知り合った友人が、コルセットを購入したのだ。ゴシックと呼ばれるようなファッションの一環としての、本格的に締めつけることが可能なコルセットだった。友人の持っていたサイト上の日記には、コルセットに魅了されている様子が日々書き綴られていた。遠い昔の文化だと思っていたけど、ほんとうに着けられるんだ!と目からうろこが落ちたようだった。

友人と会ったとき、着けかたを教えてもらった。背中側には編み上げ状に紐が通してあり、お腹側にはホックが並んでいる。背中の紐をゆるめて胴に巻きつけ、前のホックをとめて紐を引っ張るとだんだん締まってゆく。最初は友人が締めてくれた。紐を引かれるたびに息が詰まった。タイタニックみたいなのに、まわりは21世紀の渋谷なのだった。
締めた状態でしばらく過ごしていると、身体が馴染んでもっと締めても平気になる。面白くてどんどん締めた。自分でもコルセットを購入するまで時間はかからなかった。

そのころの私の実感として、身体はままならないものだった。十代後半のときに調子を崩して、ほとんど布団から出られない生活を送った。一日外出しただけで疲れ果てて一週間や十日は寝込んだし、昼も夜もないも同然だった。
薬の副作用で体重が増えたかと思えば、気付いたら減りすぎていたりもした。どうしてふつうに生活ができないんだろう、人間の世界に向いてないんだろうな〜と思っていた。
コルセットに出会うころには体調は好転していたけれど、ままならないという感覚は残りつづけた。私はもしかしたら、コルセットで変形させることで身体を思い通りにしたかったのかもしれない。

美容目的のコルセットの効能としてよく挙げられるのは、食欲が抑えられて体重が減るというものだ。
でも、私はそこにあまり関心を抱かなかった。体型やコルセットの種類によると思うけれど、私の場合、コルセットを着けてもウエストの数値が大きく変わるわけではなかった。
正面から見たときに胴が砂時計型の急カーブを描くようになるだけで、身体の厚みはむしろ増していたからだ。

とにかく不自然な身体の線を作ることが目的だった。
ブラウスやワンピースの上からコルセットを着けた状態で外を歩くと、すれ違う人にはぎょっとされた。たいていの人は、え、嘘でしょ?という顔をしていた。それがすごく愉快だった。

人をびっくりさせたり、注目されたりすることが目的だったわけではない。ただ、身体のかたちを極端なものにすることで、それが良いとか悪いとか、美しいとか若いとか女だとか、そういうのの向こうがわの嘘みたいな存在になれた気がして、愉快だったのだ。
出勤するとき、服の下にコルセットを着けていったりした。当時の職場の制服は、私に全く似合っていなくて、物理的に締めつけるコルセットよりも息が詰まった。でも、この下は嘘みたいなんだからな、と思うとそれも愉快だった。

細いウエストという記号を過剰に纏うことで記号としての意味を失わせ、逸脱へと転じさせることが、私の戦いかただった。
人間の身体は、否応なしに社会のなかで役割を与えられて、そのシステムに組みこまれてしまう。誰かが決めたルールにしたがって、されたくもない評価を下されてしまう。人間とはちがう身体を手に入れたら、人間ではないものになれるのだろうか?

そのあまりに切実な問題への解決策として、コルセットで身体を締め上げるのは健全なやりかたではなかったかもしれない。私はコルセットを着けているときに、暴力的な言葉を投げつけられたり、怖い思いをしたりはしなかったけれど、それは単なる偶然にすぎない。私はただ、逃れられない問題から目をそらしただけだったのかもしれない。
それでも、そのときは確かに、コルセットを着けることで自由になったと感じたのだ。

今では、コルセットを日常的に着けることはなくなった。不自然な身体を志向する表現のひとつだったピアスホールも大半は塞がってしまった。人間でいたくないのだと、叫ぶように装うことはなくなった。そのかわり、ふだんは服で隠れる皮膚のうえに、ひそかに一頭のユニコーンを飼っている。

編み上げられた紐への執着だけはおさまらない。もはや業のようなものだ。ブーツの紐をぎゅっと結ぶとき、編み上げデザインの服を身に纏うとき、まだ屈服したつもりはないぞ、とほくそ笑むような気持ちになるのだ。

・著者プロフィール
一角獣
ユニコーンと暮らしたいアート関係者

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