私にとってメイクのはじまりは、目の北限を探ることとともにあった。
大学院では、分子脳神経科学の研究をしていた。遺伝子改変を行ったゼブラフィッシュの脳を摘出、薄い切片を作成し、特定のタンパク質と結合して光る抗体の処理を行い、タンパク発現の様相を表現する光の局在を顕微鏡で観察する。
私が特にプロジェクトとして取り組んでいたのは視蓋(optic tectum)という領域で、脳の端にあり、視神経の投射先にあたる。Opticという名称も相まって組織的な脳の端に、眼球以外の、あらたな目の領域を知り得たような心持ちになったことを覚えている。
ゼブラフィッシュ視蓋の免疫染色像
この頃ジェンダーについて感じていたことは、戸籍上の性であり、私を見た他者があたりをつけるであろう「シスヘテ男性」という性にありがちな、競争的で、マウンティングを好み、ときに間違いを為した際に居直り、隠蔽し、そのことにより困っている人を抑圧しさえするあり方に対する強い忌避感であった。
その仲間でありたくないという気持ちが強くあり、肩幅の広い自分の身体をジャグリングの動きを見せるうえでありがたがりつつも、比較的筋肉のつきやすいこの肉体が、私の「男性性」を常にリマインドしてくるような心持ちがして、とても居心地が悪かった。「自分を褒めること」も極度に控え、一人称を「わたし」に統一し、あまり声を張らないよう努めていた。
「シスヘテ男性」にしか見えない者がこのような態度をとることが、自らの女性性を表現せず、「弱い男性」というジェンダーを表現しさえすることに、気づきもしなかった。男性的な競争社会における敗者に見えていただろうし、「慎重さ」という特性はインテグリティではなく挫折による反射的萎縮を感じさせただろう。
親しい人とセクシュアリティについて話す際には「男性ではないのだけれど、恋愛対象が女性であり、ホモセクシュアルなMtFに近い」とよく表現していた。「であれば」と連れて行かれた化粧品売り場では、肌の色にあっていないリップやチークをつけられて、逃げるように帰るような日々だった。一般的な「女装」がジェンダーの問題を解決しないことも、なんとなくわかっていた。この頃について、その他にはメイク関連の記憶があまりない。私はまつげが長いので、ビューラーをされたのが楽しかったのは覚えている。友人のメイクについて、こだわっているところはどこか聞いてみるのが好きだった。アイシャドウのことは、まだ、よくわかっていなかった。カラーコンタクトや睫毛のケアにはすぐに気がつく。
見つめあう猫 (アッコー、パレスチナ)
セクシュアルマイノリティとの恋愛と、「シスヘテ同士」に偽装したいくつかの恋愛のあと、アセクシュアルのような心持ちでいた期間があった。この頃には自分のセクシュアリティの流動性が「交際相手によって変わる」という程度のものではなく、「日によって異なる」ものであることを理解していた。Gender-fluidという言葉に出会い、自分にぴったりだと思ったのもこの頃だった。メイクの話題は、アイメイクへのこだわりを聞き出すのが主だった。
この期間に、イスラエルを訪れた。エルサレムで4泊したホステルでは、敬虔なユダヤ教徒がホストをされており、出会って間もなく信仰を問われるので、緊張する。「無宗教」と答えることのリスクを塾の英語の先生から嫌というほど聞かされていた私は「神道と仏教だけどpiousではない」と用意していた答えを言う。「仏教も神道も神の存在を前提とした宗教よね。であれば理解できるわ」と言われ、ラディカルにさえ感じたが、想定していたよりも親しみを込めてもらえたことに、ほっとする。その後も会うたびに信仰について話す。イエスの降誕の地であるベツレヘムに訪れる予定だと伝えればキリスト教とイスラム教の違いを、街の様子について話すとシムハット・トーラーとはなにかを、朝出会ったときには仮庵の祭りと出エジプト、私達がエルサレムを訪れた必然性について話してくれた。そして折に触れてブレス・ユーと言ってくれる。信仰を共有しているわけではないが、ブレス・ユーという言葉に込められた、心の底から他者の幸せを願う気持ちについては徐々に分かるようになってくる。
name=”a3PaD”>ホステルの屋上にて(エルサレム、イスラエル)
東京に戻る。人に会うたびに「アイメイクしたい」と言っている。旅においては無銘の〈私〉をやっていたため、都市におけるビジュアルと人物像の癒着する感覚が先鋭化したのかもしれない。ベースメイクの仕方もわからないのにアイメイクができるはずもないと思いこんでいて、先延ばす。とても簡単なベースメイクとアイベースを教えてもらうも、通販の在庫がなく、ドラッグストアでは自分の肌にあうものがどれかわからず、また先延ばす。そんななかでも相変わらず「アイメイクしたい」と言っていると、アイメイクだけしてしまうことを提案される。パレットを借りて、北極星の光をまとう。指でうっすらと。力加減がわからず、薄氷を踏む足よりも繊細なタッチでアイシャドウを指になじませたので、本当に薄付きだった。と思う。いつしか自分用のアイシャドウを買うつもりになっていて、北極星の光をくれた先輩が見つけてくれたADDICTIONの店舗に向かうことにする。
メタリックに仕上げたいのか、瞼をキラキラさせたいのか「自己分析ができていない」と言いながら様々な色を試していった。ナチュラルなメタリックカラーから、ラメのある寒色へ。色合いとしては自然で目元が明るく見えるようなものを選びそうだとなんとなくイメージしていたけれど、最終的に選んだのはマットで一切ラメのない、発色のよい紫色だった。名前をMissaという。
一重まぶたの両端にうっすらと人差し指で色をのせると、鏡を見るような顔つきでははっきりとしたちからを、遠くを見るような顔つきではどこか物思いに耽るような表情を、目元が示すようになった。キリストの降誕についてのエピソードには、「わたしがわたしでありながら、わたしであることを超克する」ことへの期待に様々な人が動かされ、旅路を急ぐようなところがある。
降誕のジオラマ (羊飼いの野 ベツレヘム、パレスチナ)
誰も狙い通りの移動を行うことができず、偶然起こったことが旅の全てとなり、聖書における記述のすべてとなる。私がジェンダーやメイクについて迷い、彷徨ったことも、Gender-fluidという現在の性自認の強度とは別に、大切な足跡である。もはや睫毛は目の北限ではなく、あらたな北限としての一重まぶたの辺縁には、降誕の光を吸い込む紫が佇んでいる。
・著者プロフィール
あたみ
men’sでも女装でもないメイクをする旅人