ひとりのためのウェディングドレス/ 「一人ひとりを包むもの」#2(杉田ぱん)

わたしは自分の好きなものに囲まれ生活することを好んできた。
骨董、古着、ぬいぐるみ、鉱石などを部屋に並べ、自分のお城を作ってきた。

ファッション遍歴で言えば、古着はもちろんロリヰタと呼ばれるフリフリのお洋服に身を包んだ時期もある。
自分の好きなものに思い切り囲まれて生活すると、余計な言葉をかけてくる人はいつの時代もいたのだけど、ロリヰタを着ているときに言われて印象的だったのは「そんな服着てたら、彼氏できないよ」という言葉だった。

アロマンティックパンセクシュアルのわたしに対して、なんて頓珍漢な言葉だろうとおもったが、別にわたしがロマンティックな恋の相手を求めていたとしても、自由にフリフリを着ることを素敵だと思えない人とは、恋も会話も楽しめないだろう。こちらからお断りだ。

恋人よりも、お洋服を欲するわたしは、高校を卒業すると服飾専門学校へ進学した。
まわりは、いわゆる「ファッションギーク」と呼ばれるような、自分の好きな服に包まれる人が多くなる。

服装だけではなくて、ジェンダーやセクシュアリティについても、自分のあり方を話す機会が増えたせいか、クィアと呼ばれるような人たちも前よりもずっと可視化された。
レインボーパレードの季節になると、「今年は何着る!?」みたいな会話がふつうにクラスで聞こえてくるような環境だった。
そういう環境でも、恋人の有無というのは常に幸せと直結しているとされており、ときどき居心地の悪さを感じた。

「恋に興味がない」といえば、「きっといい人見つかるよ」と励まされた。
言い方がよくなかったかも、と思い「ラブストーリーに出てくるような感情がわからない」と言い直すと「そのうちわかるよ」と言われるのがわたしの定番のやり取りだ。
そのたびに「自分は未熟な人間だと思われているのかな」という疑問が浮かんだ。

それから、友人だった人が「恋人」になるとき、以前の関係よりずっと深いもの、特別なものであるとされることを不可思議に感じてきた。
友人との関係は、それらには敵わないものだと言われているようで悔しかった。

そして恋の延長線上には、結婚という制度がある。
結婚すれば、社会的に「ちゃんとしている」みたいな扱いを受ける以外にも、国からの優遇も用意されている。
だから既存の制度に当てはまらないカップルが、結婚という制度を望むこともあるだろう。

でも、わたし自身は、やっぱり結婚をしたくないのである。
そもそも人をモノ扱いするような家制度の残骸、戸籍制度もなくすべきだ。

制度がなくたって、仲良しの人間は、仲良しでいられると信じている。
国が、人と人を縛り付けるのをやめてほしい。

もし、「ぱんさんを僕にください」と誰かがわたしの父に申し出たら、「わたしは父のものでも、あんたのものでもないよ。ずーーっとわたしは、わたしのものだ」とちょっと泣きながら、伝える。

じゃあ友人が結婚をするときには、わたしはなんて言葉を掛けるんだろう

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「30歳になるし結婚しようとおもう」と告げられたのは、旅行中のバスのなかだった。

友人の旭莉ちゃんが放った言葉を呑み込めないわたしは、深刻そうに「どういうこと?」とたずねる。一緒に旅行をしていた、他の友人ふたりもキョトン、とした顔をしている。バスの車内は異様に静かだ。

旭莉ちゃんと結婚について話したことはなかった。

でも、30歳までに結婚しないと、みたいな価値観を旭莉ちゃんから感じたことは一度だってない。

いつも自由に、服を着て、思う存分に自分の身体と脳を使って、たのしむ、旭莉ちゃんの装いが、生き方が、わたしは大好きだ。

社会がどんなかたちであっても、自由にクローゼットから好きな服を選び取る強さをずっと見せてくれた。

そんな旭莉ちゃんが結婚する。
その事実はわたしの心に重くのしかかった。

どんな言葉を贈るべきか、わからなかった。
黙っているわたしに「まあ、相手はもちろん自分なんだけど」と旭莉ちゃんはいった。

気の抜けた声を出してしまったと思う。
でも次の瞬間には、「最高〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!」と、大きな声を上げた気がする。

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旭莉ちゃんから届いた招待状の写真

聞くところによると旭莉ちゃんの自分との結婚計画の概要はこうだった。

「自分の誕生30周年を記念して自分と結婚する。ウェディングドレスを着て、結婚式で坊主になる」

バスに揺られていたわたしを含む3人の友人たちは「すばらしいね…」「なんだそれ…最高かよ…」「おめでとうね…!!」などと言い合った。

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結婚式当日、BGMの選曲をしながら剃髪する旭莉ちゃん

圧巻だった。
こんな結婚のあり方を想像したことは一度だってない。

旭莉ちゃんの自分自身との結婚は、言葉以外のやり方で、わたしのような恋や結婚に乗れない人間のあり方までも肯定するような力があった。

“一人で生きていく”というメッセージを纏ったウェディングドレスは美しかった。
着たい服を着るために、隣に誰かは必要ない、というような力強さと優しさを纏っていた。

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無事、剃髪を終えた旭莉ちゃん
撮影:はたさちお さん

そしてウェディングドレスを美しい、と感じたのははじめてのことだった。

だって、真っ白いドレスはあまりにも意味を背負ってきたから。
汚れなき証として、純白のドレスを見に纏った女たちはモノみたいに、男(父)から、男(夫)へと渡される。
それを「美しい」と思うことをわたしは自分に禁じてきたのかもしれない。

旭莉ちゃんは、ウェディングドレスに纏わりついた呪いを焼き払う。
自分がそれを着たいから、自分に似合うように、仕立て直したのだ。

ロリヰタファッションを着ていたとき、周囲の人から、その人が日常だと思っていた世界を壊されたような顔をして見つめられることがあった。
ロココ時代のファッションのかけらを、2000年代に電車のなかで見ることになるなんて、信じられない、と言わんばかりに視線をもらった。

そのたびに「あなたも自由に着たら?」と思ってきた。

もしかしたら今、わたしはその人たちとおなじような視線を旭莉ちゃんへ向けているのかもしれない。

だったら、自分のためにウェディングドレスを買うのもいいかもな。
あの真っ白い、美しいドレスを纏って自由に街を歩いたって、いいんじゃないの。
そんなふうに思っている。

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・著者プロフィール
杉田ぱん
フェミニストでクィアなギャル
Twitter:@p___sp

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