わたしには、弟がいる。弟は、いつもわたしの後ろをついてきて、おおざっぱなわたしが、ぶちまけたジュースを一緒に片づけてくれるようなひとだった。
もしくはお正月に、親戚のおじさんが「誰か~、キッチンから醤油取ってきて~」と叫んでいるとき、わたしは「自分が必要だと思うんだったら、自分の足で取りに行けばいいじゃん」と叫び返してきたが、弟は、「ほんとそうだよ」といいながら、醤油を取りに行ってしまうようなひとだった。
わたしと弟は、東京のニュータウンで育った。ニュータウンという街は、均一な世界である。
学校も、駅前のファーストフード店も、映画館も、美容室も、居酒屋も、繁華街を抜けたところある友だちの家も、わたしの暮らしていたマンションも、みーんな、おなじような外観で、おなじような色の建物だった。
その均一な街のあり方は、もしかしたら、整理されていて、うつくしいのかもしれない。けれど、わたしにとっては、うつくしさというものを、ひとつの大きな力で支配された世界のようで、不気味だった。うつくしさがひとつ、ということが何よりも退屈だった。そしてそれは、うそっぽかった。
そんな街から逃げ出すように、わたしたち姉弟は、原宿や下北沢、そして高円寺で、お洋服を探した。お洋服は、おなじものがずーっと並ぶあの街で、わたしたちがおなじ色に染まらないために大切な役割を担った。
古着屋がひしめきあう、原宿、下北沢、高円寺という3つの街には、わたしたちの暮らす、整頓された街には存在しない、まぜこぜなうつくしさがあった。
うつくしい、と形容したあとに、それでいて散らかっていて、なんだったら並んでいるお洋服にはシミとかあって、とまったく違う言葉をもってきて、5万円のワンピースのとなりに、500円のワンピースが存在する、あの街について、あのまぜこぜのすばらしさについて、いつまでも語ってみたくなるのであった。
「キャッチーでおもしろい柄のシャツを探してるんだけど、最近どっかの古着屋で、やばい服みなかった?」と弟にたずねられて、「そんなものは、わたしも欲しい」と一緒に、買い物へ出かけることがあった。
古着探しは、運試しでもある。探し物は見つからないことのほうが多いのだが、その日わたしたちは高円寺で、これだよ!という、一枚を見つけた。
我々が見つけた、へんてこ柄のシャツは、弟のものになったけど、わたしもそのシャツをときどき借りては、ともにその、へんてこを楽しんだ。
その服を買ったお店がたとえ「レディース店」と呼ばれていても、我が家のクローゼットに招かれたシャツは、弟も、わたしも袖を通すものとして、たしかに存在していた。
けれど同時に、ジェンダーというものが、装うことに線を引き、さまざまな人間たちに、それぞれの不自由をあたえていること、それらの不自由をわたしたち姉弟も、例外なく感じていた。
母にあたらしいパートナーができたとき、わたしたちの家に、“世の中が要求する、男らしさここにあり”みたいな人物がやってきた。
自分だけにそのルールを課しているのだったら、いいのだけど、わたしたち姉弟を「チャラチャラしている」と叱りはじめたときに、この人とたのしいことを共有することはむずかしい、ということを知った。
その日から、弟のアイブローペンシルが、いつも置いてあった場所から姿を消し、洗面台を使うときは、必ず鍵をかけるようになったことに、わたしは気付いていたけれど、それはどうしてなのか、弟にたずねることはしなかった。
わたしも、あの日から、弟に理由を話すことはけっしてなかったけれど、胸元が開いたトップスを着て、ダイニングテーブルに座ることが、どうしてもいやになり、気に入っていた一着に袖を通すことを見送る日々が続いていた。
わたしたちがそうやって、たのしさや、すきなものへ軽やかにアクセスすることを奪われるおかしさに、気づいたとき、わたしは早々に家をでた。
弟とわたしは、ときどき連絡を取り合った。けれど家をでられなかった弟が、その後、味わった時間について、わたしは知らない。
家をでたわたしは、それからも時々、胸元の開いた服や、足を露出するミニスカートを装った日に、自分のことを見ないでほしい、と強く願うシーンに見舞われた。
ひとりになると、もしくは、気の知れた友だちの前では、その服をとても気に入っているのに。
そんなわたしが、それでも、わたしの装いたいものを自由にクローゼットから選び取るためにできることは、どうしてあの日、ずっと気に入っていた、胸元の開いたトップスを着たくなかったのか、わたし自身が理解することだった。
社会は、ことあるごとに、わたしの身体や、装いを管理したがった。お前のものではないのだ、と言わんばかりに、まるで自分のもののように、わたしを扱おうとした。
それはあの日、母のパートナーが、わたしたち姉弟の選び取ったものを、自分が管理することができる、とおもっているような態度とほとんどおなじやり口だった。
だったら、わたしはそれを信じない。わたしの身体も、装いも、社会やだれかのものだなんて、ぜったいわたし自身がおもってやらない。それを表明するように、わたしはクローゼットから、わたしのためのお洋服を選び続けた。
社会のおかしさに、あの日のおかしさに、あらがうことを、どんなかたちでもいいから、存在させようと決めた。
久しぶりに弟に会うと、弟の装いは素敵なままだった。眉毛のかたちや色は、自分の手で、描いたものなのだと感じると、ほんとうにうれしかった。
そのとき、わたしは、あの日、弟とできなかった会話について考えた。
たとえあれから時間が経ってしまったとしても、あのときの会話を、はじめることはできるのかもしれない、とおもった。
わたしたちがみつけた、へんてこなシャツが与えてくれてたのしさに、たしかなものを感じながら、そういうたのしさを手放さないでいられる社会を、みんなでつくりたい。
それはあの日、わたしが袖を通すことをためらったトップスが、“胸元が開いている”という以外に、繊細な刺繍が施されたインド綿のヴィンテージのブラウスであったことや、弟のアイブローペンシルが、髪の毛や、瞳の色をより一層うつくしくみせることができる、アッシュブラウンのペンシルであったことを安心して、話すことができる場所なのだとおもう。
だから、そのための場所として、この「一人ひとりを包むもの」をつくることとする。そこにいつもあった、わたしたちの言葉と、わたしたちを包むものについて、あきるほどに話しあおう。
・著者プロフィール
杉田ぱん
フェミニストでクィアなギャル
Twitter:@p___sp