親ではない大人として/「あぶないいきもの」#3(直角)

『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』
斉藤倫=著 高野文子=画
福音館書店
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=5884

親ではない大人として、子どもと関わること

知人に子が生まれた。
「今度会いに来てね〜」というLINEのメッセージをしばらく見つめる。
ついにこのときが来てしまった、と思う。

考えてみれば、最近は出産や育児の話を振られることが増えていた。
私の答えはいつもこうだ。

自分が子どもと暮らす予定はない。
しかし、社会生活の中で、広い意味で子どもを育てていこうとは思っている。
それは子どもたちのための活動を行う団体に寄付をすることかもしれないし、身近なところでは知り合いの子どもと関わることかもしれない。

……とか言ってたけど、実際にその状況になってみるとびびるわ。子どもこわい。

親ではない大人として、子どもと関わることについて改めて考える。

もとより、子どもと接するのが得意というわけではない。そもそも人と会うのが苦手だ。初対面の子どもに「はじめまして。直角といいます。」と声をかける私を見て、友人たちは笑う。

中学生のときに、地元の幼稚園を訪問するという行事があった。当時、仮面ライダーを毎週欠かさず観ていた私は、5歳の子どもたちとライダーごっこを楽しんだのを覚えている。今思えば、あのころの私は、子どもに対して自分も同じ子どもとして臨んでいた。だから深く考える必要もなかった。

しかし、もう仮面ライダーは観ていない。
大人になった今、どのように子どもに対峙していけばよいのだろうか?

「ぼく」と「きみ」のおはなし

『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』は、黄色いきれいな本だ。ひらがなが多く、漢字にはすべてふりがなが振られていて、出版社のウェブサイトには「小学校中学年から」とある。時折差し挟まれる高野文子による挿絵がとても洗練されている。

この本に出てくる「ぼく」は、大人だ。
「きみ」は「ぼく」の知り合いの、子どもだ。
全十章にわたり、二人の対話を通じて詩の世界が描かれる。

「ぼく」がカップ麺にお湯を入れていると「きみ」がやってきて、話し始める。
学校の先生に叱られたこと、普段口ずさむ歌のこと、アイスの好みのこと。
どうということのない話題が、次第に言葉の話、意味の話につながっていく。
「ぼく」は本棚から一冊の詩集を引き出し、ページを開いて、「きみ」に差し出す。
二人が読む詩はさまざまだ。萩原朔太郎、中野重治、金子みすゞ、辻征夫、まど・みちお……。もちろん、新しく知る詩人も多い。

「そういう、ことばに、ならないものが、詩なんだよ」
「でもさあ、これ、ことばだよね。ぜんぶ」
きみは、いった。「ことばにならないものが、ことばになってるの?」
「ただしくいうと、ことばになってるんじゃなくて、ことばにしようとした、あと、なんだ」
ぼくは、いった。「ひとは、ことばをつくって、こころを、あらわそうとした。それでも、あらわせないものが、詩になった」

めちゃくちゃ羨ましくなってしまった。
大人が子どもの問いかけに誠実に答えようとしていたから。
当たり前のように思えるかもしれない。
でも自分が子どものころ、周りにそういう大人はあまりいなかったように思う。

詩もひとりで読んできた。
詩のことは誰にも話さなかった。
詩を読んでいると言えば馬鹿にされるような気さえしていた。
もしも「ぼく」のような大人が近くにいてくれたらどうだっただろう?

第七章で二人は、長田弘の『海を見にゆこう』という詩を読む。その中に「向日葵、ゆっくり廻れ。/アイスクリームは死ね。」という一節がある。

アイスクリームは死ねってどういうこと?と尋ねる「きみ」に、「ぼく」は擬人化という詩の技法について話す。
アイスクリームが死ぬっていうのは、つまり、溶けることを言ってるんだよって。
普通ならここで終わり。でも、この本では違う。
「きみ」はさらに疑問を投げかける。
「アイスクリームは、とけるんじゃなくて、なんのために、しぬの?」

それが、詩だから。というのは、こたえにならないよね。質問を受けた「ぼく」は、そこで初めて気づく。

夏を、かんたんにとおりすぎない、とくべつなきせつにするために、とけるんじゃなく、アイスは、しななきゃいけなかったんだ。

詩のよさを人に伝えるのは難しい。
詩を説明する言葉もまた詩になってしまうことがままある。
しかし二人はその地点で諦めずに、あくまでも言葉を相手に届けようとする。

このやりとりからもわかるように、大人である「ぼく」と子どもである「きみ」の対話は双方向的なものだ。
子どもの問いかけに答えるというと、何でも知っている大人が一方的に教えてあげるイメージを持ってしまいがちだ。
しかし本当はすべての答えを知っている必要はなくて、わからないときは一緒に考えることが大切なのだと思う。
そうすることで、子どもの言葉から大人もまた学ぶことができる。
「きみ」と「ぼく」のように。

子どもはこわくない

そこまで考えてわかった。
なぜ子どもと関わることをこれほどまでに恐れているのか。

自分が完璧な大人でなければいけないと感じるからだ。
子どもがこわいんじゃなくて、完璧じゃない大人の自分がこわいんだ。

子どもの問いには常に正しい答えを返さなければならないと思うから、子どもの前では常に正しいふるまいをしなければならないと思うから、でもそんなことは無理だとわかっているから、だから子どもと関わりたくないんだ。

一つには、「本当の」育児という幻想を自分も抱いているのかもしれない。
子供のために食事を作ったり洗濯したりっていうのが「本当の」育児。
そういう大変な部分を引き受けてもいないのにお話したり遊んだりだけしようっていうのは「本当じゃない」育児。
「本当の」育児をするのが完璧な大人だっていう幻想。

でも子育てに「本当」とかない。
自分の立場でできることをやっていくだけなんだと思う。

この本に出てくる「ぼく」も、いわゆる「ちゃんとした」大人では決してない。カップ麺とかレトルトカレーとか冷凍焼きそばばかり食べていたり、読みもしない本をいっぱい床に積んでいたりする。詩についての質問にも、うまく答えられないことがよくある。
ただ一点確かなのは、自分の立場で、誠実であろうと心がけていることだ。
それでよいのだろう。

『もしも「ぼく」のような大人が近くにいてくれたらどうだっただろう?』とついさっき書いた。
今考えても仕方のないことだ。
しかし私にできることがないわけではない。

自分がそういう大人になること。
少なくとも、そういう大人になろうとすることだ。

完璧ってことはないからね。

・著者プロフィール
直角
インターネットレズビアン
Twitter:@ninety_deg

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