『野中モモの「ZINE」 小さなわたしのメディアを作る』
野中モモ=著
晶文社
インターネットが好きだけど嫌い
私はインターネットが好きだ。
クィアなフェミニストとして暮らしていると、ときどき自分が一人ぼっちに思える。
マイノリティにとって、自分と似たような境遇の人に出会うことは難しいものだ。
そんなとき、私を助けてくれたのがインターネットだった。
セクシュアリティについて悩んでいたころに先輩レズビアンのブログに勇気づけられたし、性差別を是正しようとする人々が自分以外にも存在していることを知って心強く思った。
一方で、私はインターネットが嫌いだ。
特に、こうしてクィアとかフェミニズムといった話題について書いているとき、絶対に正しいことしか言ってはいけないという重圧を強く感じる。
ジェンダーやセクシュアリティについての認識をアップデートしていくことはもちろん重要だ。
しかし、私の場合は「正しくないことを言うと死ぬ!」くらいに思っている節がある。
自分の発言を誰が読んでいるかわからず、情報が際限なく拡散されうるというインターネットの特性のせいもあるだろう。
私は、誰もがおかしいと思うような性差別的なニュースについては「おかしい」と声を上げることができる。
しかし、当事者の中で少しでも意見が分かれるような問題については口をつぐんでしまいがちだ。
そういう問題にこそ誠実に向き合って考えていかなければいけないはずなのに、”間違った”発言をして責められるのが怖いという気持ちのほうが上回ってしまっていた。
クィアにしろフェミニズムにしろ、正しくないこと……とは言わないまでも、まだ正しいと確信できていないことをじっくりと検討できる安全な場所がないと、考えを深めていくことはそもそも不可能だと思う。
私は、あいまいなこと、わかりにくいことををそのままに表現できる場所がほしい。
残念ながら、私にとってインターネットはその意味で安心できる場ではなかった。
ZINEとの出会い
先日、『野中モモの「ZINE」小さなわたしのメディアを作る』という本を見つけた。
書店でぱっと開いたページには、次のように書いてあった。
ジンは引っ込み思案でシャイな人にはうってつけのメディアだ。対面の会話では言葉がうまく出てこなくても、ジンならば自分のペースで想いを伝えることができる。
私じゃん。
と思って、買った。
ZINE(ジン)というのは、『個人または少人数の有志が非営利で発行する、自主的な出版物』のことだそうだ。
この本ではいろいろな人の作ったいろいろなZINEが紹介されている。
手書きの紙っぺらがそのまま載っているので面白い。
文章あり、イラストあり、内容も様々だ。
今週めちゃ聴いた曲を紹介したり、雪かきの体験記をまとめたり、政治の話をしたり。
つまり、書きたいことを書いた紙っぺらをそのへんの人に配るのがZINEというやつなのだな。
私はそう勝手に理解した。
本の中でも印象的だったのは、著者の野中さんの、
なかなかしづらい、聞きづらい話を、本人が「ここまでならいいや」と納得いくかたちでシェアできるのはジンのいいところですよね。
という発言だ。
私がインターネットでできなかったことが、ZINEという形でならできるのかもしれない。
そう思って、自分でもZINE(という名の紙っぺら)を作ってみることに決めた。
クィアなフェミニストはZINEに何を書く?
とはいえ、何を書いたものか、最初は困った。
普段から関心を持っているジェンダーやセクシュアリティの話題について書いてみようかと思ったが、どうも筆が進まなかったのだ。
今思うと、自分自身がクィアなフェミニストとしてそういう話を”書かなければいけない”と思っていた節があった。
書かなければいけないことではなく、書きたいことを書くのがZINEのはずだ。
うんうん悩んだ結果、最近読んだ本のこと、好きな音楽のこと、子どものころの思い出のことなどを書くことにした。
私は近所のセブンイレブンでコピー用紙を買い、お気に入りの万年筆で裏表に字と絵を書き、またセブンイレブンに戻って、マルチコピー機で印刷した。
そうしてできたのが私のZINE第一号だ。
見たいですか?
ごめんなさい。
見せません。
インターネットに載せてしまったらそれはもうZINEではないように思えるから。
……いや、やっぱり特別に少しだけ載せよう。
これは<図解 私の机>というコーナーで、その名の通り私の机を図解したものだ。
だらしない暮らしぶりが伝わってくることと思う。
生きてるだけでアクティビズム
このZINE第一号は、本当に限られた知人にのみ見せた。
みんな楽しんでくれたようで、私も嬉しかった
特に嬉しかったのが、何人かの人が言ってくれた「直角さんらしいですね」という言葉だ。
私は普段、「生きてるだけでアクティビズムだから!」とよく口にするが、それを思い出したのだ。
マイノリティとして生きていると、「いないことにされる」経験がとかく多いものである。
レズビアンであることを例にとっても、国勢調査では同性カップルが存在しないことにされ、映画のプロモーションでは同性愛の要素がなかったことにされ、修学旅行の恋バナでは同性愛者がいないことにされる。
だからこそ、ここにいるよ〜と示すこと自体にこの上ない意味がある。
ZINEも同じだと気づいた。
フェミニストはフェミニズムの話をしなくちゃいけないのか?
クィアはクィアの話をしなくちゃいけないのか?
それももちろん大切なことで、これからも続けていくつもりだ。
でも、それだけではない。
私という人間が作った、私らしい紙っぺらが生まれること。
そのこと自体にもフェミニスト的な、クィア的な意味があることを知った。
たとえだらしない机を描いた一枚の絵であっても、私がこうして生きていることのひとつの証だから。
・著者プロフィール
直角
インターネットレズビアン
Twitter:@ninety_deg