うつの料理/「あぶないいきもの」#2 (直角)

『cook』
坂口恭平=著
晶文社
https://www.shobunsha.co.jp/?p=4917

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出会い系で出会えない

精神疾患を持つレズビアンとして、居心地の悪い思いをすることが多い。

私が自分をレズビアンだと思うようになったのは、二十歳ごろと比較的遅かった。
そのころの私は、レズビアンという言葉を口に出したことがなかった。人がその言葉を発するのを聞いたこともなかった。その言葉は文字としてのみ存在した。しばしば侮蔑的な意味を帯びて。

13インチのMacbook Airは、初めて手に入れた自分だけのノートパソコンだった。
それは銀色で、角が丸くて、日にかざすと林檎のマークがスクリーンに透けて見えるほど薄かった。
しかし私にとってそういうことはそれほど重要ではない。
何よりも大きい意味を持つのは、誰にも検索履歴を知られるおそれがないということだった。

ある夜、私は女性同士の出会い掲示板を訪れた。
パートナーを求めていたわけではなく、レズビアンをはじめ女性との出会いを求める女性たちがどのような人々なのか、知りたい気持ちのほうが大きかったように思う。
Googleで「レズビアン」と検索すると出てくる、夥しい男性向けAVのリンクの中から、どうやってその掲示板にたどり着くことができたのかはわからない。

どきどきしながらページを開く。
最初の投稿を読むと、プロフィールが書かれていた。
住んでいる地域とか、好きな音楽とか、休日の過ごし方とか。
ふーんと思いながら読んでいくと、最後の行に「※メンヘラお断り」の文字を見つけた。

ひやりとした。

気を取り直して画面をスクロールする。
しかし、次の投稿にも、その次の投稿にも、判で押したように「メンヘラお断り」と書いてあった。

「メンヘラ」などという言葉を軽々しく使う者はこっちからお断りじゃいと今なら思えるが、当時は落ち込んだ。
自分はすでに精神疾患で通院していたし、そのことを隠してパートナーを探すということは考えられなかった。
出会い系なのに出会うの不可能じゃん……と思った。

その日はしょんぼりして寝た。

精神科のドアは地獄の門ではない

そして時が経ち、この原稿を書いている。私のノートパソコンも今は4代目だ。

あのときの掲示板をもう一度訪れた。
驚いたことに「メンヘラお断り」という文言はかなり減っていた。
しかし代わりに「精神的に自立した方希望です」という表現がめちゃくちゃ増えていた。
一見マイルドになっているようだけど、言いたいことはあまり変わっていないのではないかという気がする。

精神疾患を持つ当事者の中にもこの問題を気にしている人はいるらしく、別の掲示板で「(病名)は”メンヘラ”に入りますか?」という質問を見かけたこともある。
それに対する回答として「(病名)だというだけでは”メンヘラ”のうちには入らないと思います! 精神疾患があっても、他人に迷惑をかけないようであれば”メンヘラ”には当てはまらないですよ。安心してください♪」みたいな返信がついていて、そういうことじゃないだろーーー! お前は他人に迷惑をかけたことが一度もないのか? なぜ精神疾患を持つ人間に対してだけ、他人に迷惑をかけることを禁ずるのだ?

そもそも、性的少数者はメンタルヘルスのハイリスク層であることが知られている。NPO法人虹色ダイバーシティと国際基督教大学ジェンダー研究センターが共同で実施した調査
によれば、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルの回答者の25%、トランスジェンダーの回答者の35%にうつの経験があったという(※1)。

精神疾患について語ろうとすると、世界があちらとこちらにきっぱりと分かれているように考えがちだ。それは出会い掲示板の場合に限らない。

かくいう私も精神科を初めて受診したとき、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という字句が頭に浮かんだのを覚えている。
自分の心の中にも、精神疾患に対する偏見が強くあったからだ。

実際には、精神科のドアは地獄の門ではない。
あの日に捨てた希望を、これから少しずつ拾っていこうと思っている。

今回の料理本の話も、その試みの一つだ。

料理による生の証明

もともと、私には、うつがひどいときのための決まった献立がある。まずはバナナ。主食である。魚肉ソーセージ。これが主菜になる。最後にミニトマト。脇を固める副菜だ。共通点は、調理をしなくてよいことだ。これらを齧って、今日まで生きてきた。

そんな私であるが、先日、ある本に出会った。
坂口恭平さんの『cook』だ。
日々の料理の記録をまとめた手書きのノートを書籍化したものだが、面白いことに、坂口さんは料理をすると「うつ」が明けるという。
そんなに言うなら私も試しにやってみようと思って、本を購入したその日から自炊を始めた。

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(初期の一皿。高菜の焼きめし。親犬から乳をもらう子犬のようにチーちくが並んでいる。)

坂口さんによれば、料理は、うつへの対処としての「手首から先運動」の一環だ。うつで体が動かないときに、頭の中で否定的な思考ばかりがぐるぐるしてしまうことがある。そこで、対処法として編み物や料理などの手首から先を動かす運動に注目したそうだ。翌日のメニューを事前に考えることで、未来を生きるイメージを持つことができるともいう。レシピの合間に傍点付きで「絶対明日も死にたくない!」と書いてあって、少し笑った。

この本における坂口さんのやり方は、以下のようなものだ。

①無理をしない。疲れたらモッチッチで充分。
②できるだけ新しいメニュー(ウンチク増えると効果絶大)
③洗いものまでやって料理終了(もちろん疲れたら人に任せる)
④買いものも行ってみたい(僕はスーパー、デパート苦手だから好きになってみたい)
⑤知るとうれしい、手を動かすと治療になる。
家事は栄養になり健やかさを得る。
金では決して買えない最高の薬です。

そんなにうまくいくものかねと思いながらともかくも始めた私の自炊生活は、意外にも一ヶ月、二ヶ月と続いた。自宅の台所はそれまで一度も使ったことがなかったが、コンロと壁の間のごく細い隙間に、砂糖や塩、油が並ぶようになった。同時に、私の料理も日に日にそれらしくなっていった。

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(肉まん(市販)・チャプチェ・トマト。この日はトマトを切る気力がなく、洗ってまるごと置いた。)

自炊にもだいぶ慣れてきたある日、事件が起こった。

盛り付けという概念を発見したのだ。

その瞬間は突然訪れた。
皿の上に料理を配置し終えた瞬間、
るん!
と思ったのだった。

るん!の中身を説明するのは難しい。
ただ、それまで私が盛り付けと呼んでいた作業は、単に机が汚れないように皿の上に食べ物を置いていただけだったということを知った。
どうせ自分が食べるだけなのにわざわざ見目よく盛り付けるということは意味がわからないとずっと考えていたけれど、少しだけ理解できたような気がした。
自分のためだけに、本来不要ともいえる手間をかけることで、自分をるん!と喜ばせてやることができたのだと思う。

同時に、料理とは自分を生かすための世話なのだということを初めて明確に意識した。
病気が悪いときには特に、身の回りにコントロールできることがほとんどないように思えることがある。
そんなときに、できれば簡単なものでもよいから料理をしてみることで、生活の手綱を自らが握っているという感覚を蘇らせることができるような気がした。
自分で料理をして自分で食べるとき、私は世話をされる側でもあり、世話をする側でもあるからだ。

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(ある日の朝食。盛り付けという概念を知り、彩りに気を遣うなど努力してみた。)

『cook』の中で坂口さんも書いている通り、料理をするということは生きることに密接に関連した行為だ。

精神疾患を持つ人が食事を作り、食べて、生きていること。
その様子を継続的にノートに記録していること。
ノートが本として出版され、私の手元に届いたこと。
そして本を読んだ私が、食事を作り、食べて、生きていること。

それらすべてをとてもありがたいことのように思った。

かつて私が病気の診断を受けたときには、何かが根本的に変わったような気がしたものだ。
それまでの生活がぷつりと途切れて、別の世界に来てしまったようだった。

あの夜、暗い部屋の中でMacbook Airの画面に光っていた「メンヘラお断り」の文字を今も忘れたわけではない。

しかし今回、料理を通して実感したのは、病気になった後も私の生は続いているということだ。
そしてそれこそが、私にとって本当に確かなこと。
この生はいつか終わるけれど、今はまだ終わっていない。
トマトをまるごと皿に「盛り付ける」とき、そのことがはっきりとわかる。

参考:
(※1)LGBT研修 | 認定NPO法人 虹色ダイバーシティ

・著者プロフィール
直角
インターネットレズビアン
Twitter:@ninety_deg

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