もう年の瀬ですね。気圧も厳しくなって参りましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
ゆにここでは年の終わりを記念して、スタッフによるアドベント企画をゆるっと開始いたします。毎週ひとつずつ、合計4本のエッセイが公開される予定です。
今回はテーマとして、「愛」を設定しました。愛といっても、人と人とのそればかりが愛ではありません。人と場所、人ともの、あるいはもっと漠然とした何かと何かの間にある大きな概念について、スタッフそれぞれの視点で語っています。
どうぞお部屋を暖かくして、軽い気分でお楽しみいただけたら幸いです。ハッピーホリデー!
第1回 「理想郷について考える」/杉田ぱん(1)
第2回 「楽園でイヤホンを失くす」/とりいめぐみ
第3回 高島鈴
第4回 杉田ぱん(2)
2本目は、Xemono代表のとりいめぐみによる、楽園についてのエッセイです。
株式会社Xemono代表取締役。
楽園とは、あらゆるものがなんの意図も伝えてこない場所のことだ
イヤホンを失くした。
でもしたいのはそれで悲しかった話ではなくて、イヤホンをつけずに歩いた街の話だ。
# 街、マジでどうでもいいことでいっぱい
街では風が吹いたり葉っぱが揺れたり、誰かが誰かと会話をしていたり、自分の足音が鳴っていたりする。
「キャバクラどうですか」と声をかけられ、キャバクラはどうでも良かった。
「ホストどうですか」と別の人に声をかけられて、ホストもどうでも良かった。
コンビニに向かう坂を登っていると、人が二人で歩きながら「ゆうちょがありますように」と口に出しているのを聞いた。けれどその二人がゆうちょにたどり着けたかどうかを知ることはできなかったし、私には関係がない。
聞こえた言葉の切れ端に良さを感じて、私は「ゆうちょがありますように」という言葉だけをこれからも勝手に覚えているだろうと思った。
街の9割は私には関係がなく、道で酔っ払いが歌っている歌は私に向けられたものではない。
イヤホンで聴いていた音楽は私が選んだり機械が私が好きそうだと思って選んだもので、私はそれを心地よく感じていた(心地よく感じなくなったら別の音楽を流していた)。
もしイヤホンを失くしたら、すごく不安で不愉快な気持ちになるかと思ったが、ちょっと寂しくなっただけだった。そう悪くはない。
もしも世界にキャバクラ関係の仕事しかなくて、街のあらゆるものがキャバクラに関わっており、自分もキャバクラ関係者であったなら、不意の「キャバクラどうですか」には興味を持たずにはいられないだろう。けれど、幸いなことに世界には想像もつかないほどたくさんの出来事があり、そのほとんどは私に関係がない。
# 関係ないのは最高
世界は整然としておらず、体系立てられてもいないし、統一された意思もなさそうだ(あってもきっとわからない)。
体系があると安心する人もいるけれど、私はあまりそうではない。
世界に意思があると信じるより、ドーキンスがぶつくさ言っていた「自然は我々に説教するためにあるわけではない」という世界の見方のほうが私好みだ。
関係がありすぎると困るし、意思を見出しすぎるのも困る。
出来事と出来事の間に関係を見出すことは、理解の第一歩だ。理解は美しい。それはわかる。
けれどあらゆることに関係を見出してしまえば、人はその理解の光に耐えられないだろう。
季節が変わっていくのは自分の努力不足のせいではなく、地球が勝手に回っているだけだし、電柱が等間隔に並んでいるのは自分にだけ向けられた秘密のメッセージではなく行政の仕事で、人々がすれ違いざまに笑っているのは盛り上がっているからであって自分を笑っているわけではない。
理解はあまりに眩しすぎ、人はすぐにうっかり「理解」をしてしまい、そして関係を見誤る。本当は大抵のことには関係がないんだ。関係のなさこそを享受しないといけない。
私がSNSを愛してしまうのは、投稿の並び順に特に意味がないし、誰の話も聞かなくていいし、じっさい誰も話を聞いていないところだった。
SNSでは言葉が届かないことより、うっかり届いてしまうことのほうが怖いのである。
# 楽園のことを考える
関係のなさを享受できるのは幸せなんだろうなと思う。
けれど実際は、あらゆることに無関係ではいられない。
読める字があれば読んでしまうし、読めない字があると不安になってしまう。
完全に無意味とわかっていれば何も怖くない。怖いのは自分に向けられたものの意図がわからないことだ。
玄関のドアについた汚れがドアの上にとまったハトの糞の軌跡だったら、迷惑に思えど怖く思うことはない。でもそれが誰かが書いた文字に見えてきたら、善意だろうと悪意だろうときっとすごく嫌だろうなと思う。
ハトの糞の軌跡には意思も意味もないけれど、書かれた文字には意思も意味もあるからだ。
自分に関係あるかもしれない予兆や意味を読み取れないでいるのは怖い。
もし楽園という場所があるのなら、そこには自分とは関係ないものしかなくて、理解しなければいけないことなんて一つもないのだろうなと思う。
知恵の実を食べる前、人間は楽園に居たという。
きっと安全で食い物にも困らなくて、あらゆることがどうでも良かったから認識なんて邪魔だったのだろう。
私にとって、街は人がこの世に望んで作った楽園に思える。
自然災害や水道工事のように不可避にやってくる関心事はあるけれど、基本的に気にしないといけないことは関係者だけが気にすればいいことになっているからだ。
私はイヤホンを失くした街で、街と私の関係のなさに守られて歩いた。
私は街を愛しているけれど、街は私のことを別に愛し返さないだろう。関係ないのだから。それが良いし、それで良かった。
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