私は自称「片想いのプロ」である。
人生のほとんどを、人間に恋焦がれ、追いかけ、見つめることに費やしてきた。
いちどきに複数に恋することもしばしばなので一途とは言えないが、いずれも長く強い愛であると思う。
「片想いのプロ」だが「両想い」の経験はない。
相手が顔見知りであっても芸能人や有名人であっても、同じように熱く、激しく、ひそやかに恋する。
どうも私の思考回路は、「好き」という感情と「現実的な恋愛関係を結ぶ」という行為との結びつきをそこまで重視していないらしい。
そりゃあ毎日会って、話して、愛情を伝えられたら最高だが、それができないからと言って「好き」は一ミリも抑制されないのである。
「片想い」は楽しい。
愛する人を見るために劇場やイベント会場に足を運ぶわくわく。
次に会えるのはいつだろうと思いめぐらせながら、グッズや写真を眺め、音源や映像を繰り返し再生する。
「片想い」は時々悲しい。
好きになった人が生きているとは限らない。
映画は素晴らしい発明だが、私が生まれる前に死んでしまった人と恋に落ちる機会を作ってしまったのは、罪深いと思う時がある。
「片想い」は不思議だ。
昨日まで知らなかった人が、私をオペラとかヤクザ映画とか文楽とか、思いもよらなかった場所まで運んでくれる。
「片想い」は苦しい。
どんなに愛しても、死や引退やそれ以外の別れが彼女ら/彼らを奪ってしまう。
「片想い」は祈りだ。
あらゆる苦難の時に、私は遠くにいる愛する人たちのことを思い浮かべ、彼らの幸福を祈る。
毎日、家中に飾った「愛する人」たちのポスターやカレンダーやポートレートを見るたびに、「愛」の不思議を感じる。
愛しても愛しても、私は彼女ら/彼らから幸せを受け取ることしかできず、私から与えることができないのだ。
もちろん、劇場に足を運び、チケット代やグッズ代を払い、ときにはプレゼントを渡したり応援の言葉をかけることはできる。
でも、そんな程度じゃ、私がこの人たちから受け取っているたくさんの幸福や感情の、1%にだってなりはしない。
でも、それでいいと思う。
「片想いのプロ」などと大げさに言ってみたが、不器用でみっともない愛し方しかできない自分が「片想い」について教訓めいたことをいえるとすれば、ただ一つこれだけだ。
「奪おうとしてはいけない。ただ、幸福を受け取りさえすればいい」
私の、愛しても愛しても底のない片想いの世界を、ちょっとだけ覗いていってもらいたい。
・著者プロフィール
吉田瑞季
オタクに夢を売る仕事をしているオタク
演劇・古典芸能・ヤクザ映画・詩歌