愛はいつだって暴力だ/「愛しても愛しても」 #4(吉田瑞季)

 先日公開した「ゆにここ編集部チャット」では、カバー画像にこの画像をトリミングして使った。

https://www.pexels.com/ja-jp/photo/t-1998251/

 記事用にいい感じの写真を探してきてペッと貼る仕事はしばしば発生するが、なかなか大変である。
この写真も、「フェミニズムの画像とは???」と思いながら100枚以上見て探した。
このTシャツを着ている人の写真のシリーズが上のPexelsというフリー画像サイトには結構あって、多少バリエーションがあるが、

NO HOMOPHOBIA
NO VIOLENCE
NO RACISM
NO SEXISM
YES KINDNESS
YES PEACE
YES EQUALITY
YES LOVE

という文字がプリントされている。
実はこの写真を使うかどうか、数分悩んで、若干の妥協とともにカバー画像に採用した。
ただ一つ、「YES LOVE」という一行が、引っかかったからである。

 「LOVE」という言葉を、わたしは掛け値なしに信じることができないからだ。

 上のTシャツの文言のように、英語の「LOVE」を疑問の余地なくポジティブにとらえる考え方は、おそらくキリスト教的な価値観に深く基づいているのだろうとは思う。
神の愛、そして隣人、世界への広い愛。そういうものと、家族や友人への愛、動物やぬいぐるみへの愛、土地への愛、そしてロマンティックな愛、セクシャルな愛、すべてを包括して「LOVE」と表現するような考え方。

 しかし、わたしは愛の善良さをまったく信じることができない。
むしろ、愛はいつだって暴力的なものだ、ということを思い知りながら生きてきた。

 自分自身が他者に向ける愛情の恐ろしさに気づいたのはいつ頃だろうか?
中学生の頃には、自分と愛する人の温度差に毎日苛立ち、好きなはずの人に怒りを覚える自分に愕然としていた記憶がある。
交際していたわけでもないし、なんなら交際したいとも思ってすらいなかった。いわゆる「告白」したいと思ってもいなかった。
自分が好きな人と交際することが幸せだなどと思わなかった。そこまで自覚していたにもかかわらず、相手に「わたしの気持ちの半分くらいはわたしを思ってくれないか」と理不尽な願望をもち、怒り狂っていた。

 中学生だから、狭い世界の中でほかにやることもなく悶々としていたのもあるだろうが、今思い出してもマジで迷惑極まりないヤツである。
なんとかストーカーとか迷惑行為に走らないように発散できたのは、短歌を作っていたからだった。
歌作用のノートになら、どんなヤバい感情も書いて大丈夫だし、短歌というのは便利なもので、31音におさめて読めるようにするために推敲しているうちに、ヤバい感情と自分の間にちょうどいい距離が生まれてくる。

 恋をしているときのわたしは、とにかく短歌を作りまくることで、愛の加害性を紙の上に取り出して、生身の人間にぶつけないようにしていたわけである。

 とはいえ、これも完璧な解決策ではない。

 たまに、歌人(短歌を作る人)のコミュニティでふざけて「歌人とつきあうと相聞歌(恋愛の歌)にされるぞ」と言ったりするのだが、これはぜんぜん冗談にならない。

 実在の人間をモデルに詠んだ短歌を雑誌なり賞なりで発表するときは、いつも「これ大丈夫かな……」とひやひやしていたし、マジでやばいやつは推敲の段階ではじいていた。
公に発表する以上、まかり間違って本人まで届いてしまったら相手はわたしのヤバい感情で恐怖を味わうんじゃないか、といつも恐れていた。
その反面、逆に本人まで届いて、そして本人が「なにか」を感じてくれないか、というある種の加害欲みたいなものを感じることもあった。そして自分にドン引きした。

 愛が恐ろしいのは、それがほかの暴力と同じように、他者に働きかけて相手のありようを変えてしまおうとする力でありうるにもかかわらず、多くの人々がそのことに気づいていないことだ。
わたしが「わたしを好きになってくれ」と言って誰かの喉元にナイフを突きつければ、相手は拒絶し周囲はわたしを押さえつけて警察を呼ぶ。
でも、愛は、時にナイフのように鋭利で危険なのに、突きつけられた本人さえ拒絶をためらうほど理不尽に免罪された暴力だ。

 わたしが行きたかった大学の赤本を自室に隠しもっているのを知っていて、「でもあなたは進学のための努力をしていないじゃない」と言ってそれを捨てさせた母は、わたしに「愛している」としきりに言った。
その言葉はあまりにも本当だった。彼女は愛でもって、わたしの行動を変えさせようとし、実際に変えさせた。

 この連載でも、いままで故人ばかりを取り上げているのは、そういう葛藤が自分にあるからである。
生きている人は、いつかわたしが書いたものを見つけて、傷ついてしまうかもしれない。誹謗中傷ではなくても、愛は、他者への願望を含み、相手を変容させたいという暴力性を内在しうる。

 ずっと応援していた若手の俳優がいた。彼女は華やかさと才能に満ちていて、それなのに心配になるほど謙虚な人だった。
そして、ある時長い休養に入り、そのまま俳優業を引退した。
わたしは彼女を間違いなく愛していた。劇場へ通い、差し入れやファンレターを渡したこともある。そして、今も愛している。
ときどき、彼女は今、幸福だろうか? とか、芸能の世界に戻ってきてくれないか? と考える。
だけど、そういうふうに彼女の現在を想像したり、幸福や復帰を願ったりすること自体が、彼女の平穏を脅かしうるということをわたしは知っている。

 愛はいつだって暴力だ。

・著者プロフィール
吉田瑞季
オタクに夢を売る仕事をしているオタク
演劇・古典芸能・ヤクザ映画・詩歌

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