カネボウのブランドコンセプトムービーが、物議をかもしている。
「生きるために、化粧をする」というコピーを前面に出し、さまざまな「化粧をする人」を映し出して、その力強さや多様性を表現しようとしているようだ。
このムービーが化粧する人へのエンパワメントを意図したであろうことと裏腹に、少なくない人が「生きるために化粧をしなければいけない社会を肯定している」と息苦しさを感じたと発言している。
なぜ伝えたいメッセージと裏腹の印象を視聴者に与えてしまったのか、映像のパートごとに読み解いていこう。
「何のために化粧をする?」という問い
冒頭、まず若い女性の声のナレーションが「化粧なんて、何のためにするのだろう?」という問いを提起する。
化粧なんて何のためにするのだろう、と言う人がいる。
化粧で喉は潤せないし、お腹だって満たせない。
それでも、わたしたちは化粧をする。
美しさのため?
誰かのため?
あなたは、何のために化粧をする?
ナレーションとともに、アフリカ系やアジア系の人々の祝祭的な化粧のようす、バーレスクなどのダンサーと思しき人の舞台メイク、白髪の高齢女性などが映し出される。
そして「唇よ 熱く君を 語れ」と力強い歌声が始まる。
わたしにはまず、この「あなたは、何のために化粧をする?」という問いがどれほど複雑な問題をはらんでいるか、動画の作り手が気づいていないのではないかということが気になった。
「何のために/なぜ、化粧をする/しないのか?」という問いは、社会における化粧する人の不均衡をあらわにする問いである。
女性の多くはいろいろな文脈で「なぜ化粧をする/しないのか?」と問われる経験をする。たとえば、中学・高校時代に校則で化粧が禁じられていたという人もいるだろう。そして、それに抗って化粧をし、大人に「なんで化粧なんかしているんだ(色気づいて)」というような言葉をかけられる、というのは結構あることではないだろうか。
逆に、高校を卒業してから就職したり進学したりしたとき、突然化粧をすることが当たり前になって、「なんで化粧をしていないんだ」という視線にさらされて戸惑い、驚く、というのもよくある話だ。
成人してからも、すっぴんで仕事をしていれば「何で化粧をしないんだ」と言われ、好きなように化粧をすれば「なんで年甲斐もなくそんなに派手な化粧をしているんだ」と言われる。
そしてこの問いは、化粧をする男性や、トランスジェンダー女性、トランスジェンダー男性、ジェンダーフルイドやXジェンダーの人たちにとってはよりセンシティブなものになりうる。
化粧をしないシスジェンダー男性は、ほとんど一生「なんで化粧する?」という問いには縁がないだろう。(自分が発する場合はあるかもしれないが)
しかし化粧をする男性は、「なんで男なのに化粧をするんだ」というという問いや視線に四六時中さらされる。そして、時に「男らしくない」「変」という偏見に満ちたレッテルを貼られてしまう。
トランスジェンダー女性やトランスジェンダー男性、ジェンダーフルイド、Xジェンダーの人々にとっては、「化粧をする理由」を問われることは、自分のアイデンティティの領域に土足で踏み込まれ、その妥当性を一方的にジャッジされることにつながりかねない。
「女性らしい化粧」がうまくできているかがトランスジェンダー女性の「パス度」(辛い言葉だ)を左右したり、化粧をすることが「女性的な営み」とみなされ、化粧する目的を「女になるため」と解釈されかねない社会において、化粧の目的を問う、というのは他者のデリケートな領域を侵害しかねない行為ではないだろうか。
「何のために化粧をする?」という問いかけは、時に暴力になりうるということを、このムービーの作り手たちはわかっていたのだろうか?
映し出される「多様性」への違和感
このムービーに登場する「化粧をする人たち」は一見、多様性があって、化粧の既成概念にとらわれないチョイスのように見える。
しかし、前半では民族伝統のものと思われる化粧を施した非ヨーロッパ系の女性たちが、中盤では白無垢を来た女性が登場し、エキゾチックな「婚姻」や「祝祭」のイメージを強く与える構成となっている。
「婚姻」は、女性が生きるために家や男性に選ばれなくてはいけない、そのために美しく装わなければいけない、そういう強力かつ歴史的な抑圧そのものだ。
文字通り「生きるために、化粧を」、つまり「死なないために化粧を」してきた女性たちを彷彿とさせ、決してポジティブなだけのイメージとは言えない。
そもそも、この動画には「女性的」な表象ばかりが登場する。
化粧文化は、何も女性装をする人だけのものではない。
化粧をする男性も、この動画に登場する男性モデルの井手上漠のように「女性的」な見た目の人だけではない。
現代なら韓国アイドルや男性の美容系YouTuberのように「男性的」な見た目に合わせてメイクをする人たちもたくさんいるし、そもそも日常的に化粧をする男性が少なくなったのは近代以降のことだ。
日本でも西洋でも貴族階級の男性は日常的に化粧をしていたし、世界のさまざまな文化圏で祝祭的な場や芸能の舞台では当たり前に男性が化粧をする。
歌舞伎役者は女形ばかりが化粧をしているわけではない。役の強さや悪さ、滑稽さを表現するために立役(男性の役)もみな化粧をする。
わたしの故郷では祭の日には少年たちが白塗りして唇に紅を指し、振り袖姿で獅子舞を踊る習わしが今でもある。
カネボウの動画では、そのような化粧の文化的文脈や歴史性がごっそりと無視され、化粧と「女性的なもの」が無批判に強く結びつけられているように見える。
動画の制作者たちは、化粧の多様性をどんなに表現しようとしても、「女性性」と化粧を切り離すことができないようだ。
ひいては、カネボウが化粧品の買い手として「女性的な装い」をする消費者だけを視野に入れ、その他の「化粧する人々」を顧客としてみなさない、というメッセージにさえ見えてくる。
動画の中で「女性的」なものとしてしか化粧を表現していない以上、「生きるために、化粧をする」という言葉は、結局は女性のみに向けられた言葉として受け取られる。
女性だけが「生きるために、化粧をする」のであれば、そこには「男に選ばれ愛されるために女は美しくあらねばならない」とか、「社会の中で人間として認められるためには化粧をしなくてはならない」という前時代的な抑圧との連続性が見いだせてしまう。
この言葉が「(自分らしく)生きるために、化粧をする」というような意味なのであれば、女性装をする人々だけでなく、もっとさまざまな仕方で化粧とかかわる人々を描く方が説得力があったのではないだろうか。
「生きるために、化粧をする」はわたしたちが必要としている答えなのか
「あなたは、何のために化粧をする?」と問われ、「唇よ 熱く君を語れ」「誰よりも美しく輝け」と歌いかけられ、そしてムービーの一番最後、黒い背景に大きな白い文字で
「生きるために、化粧をする」
というコピーが示される。
このブランドコンセプトムービーのもっとも大きなテーマであり、ブランド全体が目指す指針でもあるだろうこの言葉だが、「何のために、化粧をする?」という問いに対して、わたしにはあまりにも抽象的で不十分な答えに感じられてしかたない。
「なんのために化粧をするのか?」
それは、特に化粧品を売る側にとっては重要な問いであろう。
化粧品を作り、売る人々にとって、化粧をする人、しない人たちに向き合い、無数の「なんのため」を模索することは、業界や企業の生き残りにとって不可欠だ。
にもかかわらず、彼らが出したのが「生きるために」という答えだというのは、ひどく大雑把で、陳腐なものではないだろうか?
化粧は、衣食住や医療のような、「生きるため」に不可欠な製品やサービスとは違う、というところから始まったはずの問いの答えが、結局「生きるため」に着地するというのは、この映像のストーリーのオチとしても、なんだか肩透かしだ。
世界に生きるすべての人が「なんのため」「誰のため」と問うことも問われることもなく、肌を、目を、髪を、指を染められるように(あるいはそうしないことを選べるように)ならなければ、化粧という文化が力強く生き残っていくことは不可能なのではないか、と思えてならない。
・著者プロフィール
吉田瑞季
オタクに夢を売る仕事をしているオタク
演劇・古典芸能・ヤクザ映画・詩歌
カネボウを官公庁やインフラ企業みたいに思っている人が多い気がしますねえ。化粧まわりに心の傷がある人たちがわざわざ女性向けメインの化粧品会社のブランドコンセプトCM見に行って傷ついたって主張するの、不思議です。
—–COMMENT:
>KATO Koseiさま
化粧品製造販売企業にとって化粧をするすべての人は顧客です。
顧客に不快感を与えるプロモーションはまず広告として失敗しています。
実際に多くの人が違和感を表明していますし、それは消費者として普通の行動です。
芸術社会学がご専門とのことですが、芸術分野の素養も社会学の素養も見受けられないご発言ですね。