男じゃないけど『男らしさ』が重い/「あぶないいきもの」#1(直角)

『男らしさの終焉』
グレイソン・ペリー=著
小磯洋光=訳
フィルムアート社

男らしさの終焉【推薦コメント】本書を読みながら、「男らしさ」ってなんなのかと考え、自分の頭の中に浮かんだ言葉でもっともしっくりときたのはfilmart.co.jp

はじめに

私が専攻した理工学は、長い間、男性の学問とされてきた。(正直なところ、今もそうだと思う。)そんな中、同じ分野を学ぶ女性の姿にいつも勇気づけられてきた。既存の「女らしさ」にとらわれずにしたいことをする女性のお手本が必要だった。

一方で、花を生け、食事を作り、化粧をする男性を見ると大きな喜びを感じる。既存の「男らしさ」にとらわれずにしたいことをする男性の姿も、同時に私は求めている。

それはなぜだろうか?

「男らしさ」と私

私は「女性的」だと思われるのがずっと嫌で、花が好きだと口にすることさえできなかった。
「女性的」なふるまいなど、本当は存在しないと知っていたのに。

でも! 花が好きって言ったら「やっぱり女の子っぽいところもあるんだね〜!」って嬉しそうに言ってくるじゃん! お前らがさあ!

私は林檎の花が好きなんだよ。丸い蕾が紅色で、開いた花はその名残の薄桃色になるんだよ。甘い香りが五月の風に乗って誰もいない国道まで届くんだよ。なぜ放っておいてくれないんだ。

グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』を読んで、そういう悲しみと怒りが初めて認められたように思った。
(この本は私にとって考えるきっかけになったが、男性性をペニスやY染色体と安易に結びつけている点をはじめ、よくないと思う部分もある。)

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グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』

この社会はいわゆる「普通」の男性を基準として作られていると著者は言う。彼らは白人・ミドルクラス・異性愛者といった特徴を持っており、そうでない人たちと比べて特権的な立場にある。

そうした構造は、条件に当てはまらないマイノリティはもちろん、当の男性たちにとってもよくない。特権的な男性像を理想とする男性たちは、常に「どれくらい”男らしい”か?」を他人と比較する。

すると、自分の頭の中に監視者を作り出し、「男性的」でないとされる振る舞いを避けるようになってしまう。

好きな服を着ることもできない。優しく振る舞うこともできない。感情を表現することもできない。自分はもちろん、他人を傷つけることにもなる――

ここに書かれているのはだいたい私のことだ。
不思議なことに、そう感じた。
ただ一つ違うのは、私は男性ではないということだ。

(したがって、男性優位の社会構造の中で、私が男性として恩恵を受けることはない。生きづらさばかりが募るのだから、まったく馬鹿馬鹿しいわけだ。)

私は女性だろうか?

私は自分が男性だとは思わない。
では、自分が女性だと思っているのだろうか?

『男らしさの終焉』の中に、『かつて女性は、卑しくて、粗野で、動物的で、「情熱的」に爆発し、「非合理的」に振る舞うとされていた。』という一節がある。男性たちはしばしば、自分は女性「なんか」じゃないとアピールすることで、自らの男性性を確かめ合う。

これと同じで、女性性を避けようとするのは自分の中で女性を見下しているせいではないかと思い、非常に嫌だった。

しかし、近ごろそれだけではないと思うようになってきた。
鏡の前で自分の体のかたちを眺めるとき、人が私を「彼女」「女友達」と呼ぶとき、傷つくというほどではないが奇妙な気持ちになることがある。

これはノンバイナリーっていうことなのかな?

※ちなみにノンバイナリーというのは、女性/男性という二分法にあてはまらないジェンダーのあり方のこと。

そう断言するのには葛藤を感じる。
別に自分は女性であって構わない、こういう女性も存在することを見せてやるという気になることもある。

でも、ノンバイナリーという概念がもっと身近に感じられる世界だったらどうだったろう。

私の憧れの人

私の好きなアプリ、Pokémon Go にブランシェというチームリーダーが出てくる。ノンバイナリーだという。

私は興味を持ち、その人(彼女でも彼でもなく、その人)の率いるチームミスティックに加わった。

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ブランシェ。素敵だ。

こんなファンアートを見かけたことがある。

「So are you a boy or a girl? あなたは男の子? 女の子?」との問い。
ブランシェは「I’m team Mystic. 私はチームミスティックだ」と答える。
質問者は懲りずに「But what’s in your pants? いや、パンツの中にあるものを聞いてるんだけど」と踏み込んでくる。
ブランシェは顔をしかめるが、一瞬の後に得意そうに笑って「WISDOM. 知恵だよ」と言う。

チームミスティックは知性を重んじるのだ。

嬉しかった。
ジェンダーのあり方について、共感できるキャラクターに初めて出会ったように思う。
私のパンツの中に知恵があるかどうかは不明だが、ブランシェに出会うのが二十年早かったら、迷わずにノンバイナリーを名乗っていたような気もする。

なりたい私

でも今はわからない。
自分がノンバイナリーだと信じる夜もある。
翌朝になると、やっぱり自分は女性なんだと思う。
わからない。

『男らしさの終焉』の話に戻ろう。

既存の「男らしさ」を批判的に検討した上で、著者はこれからの男性の新しいあり方を示す。
本の最後には「男性の権利」として、以下の八つが挙げられている。

・傷ついていい権利
・弱くなる権利
・間違える権利
・直感で動く権利
・わからないと言える権利
・気まぐれでいい権利
・柔軟でいる権利
・これらを恥ずかしがらない権利

読み終えて少し泣いてしまった。
自分自身にこうしたことを許せるようでありたい。
私が男性でなくても。
私が女性でなかったとしても。
私のジェンダーがどのような形であっても。

・著者プロフィール
直角
インターネットレズビアン
Twitter:@ninety_deg

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