北陸には8番ラーメンというラーメンチェーンがあり、老若男女に大変人気である。
わたしのお気に入りは「小さなCセット(野菜ラーメンハーフ+唐揚げ)」で、東京の野菜タンメンとも違う、シャキッとした野菜がどっぷり乗ったラーメンと、カリッじゅわ〜の唐揚げが最高。
都内にもあって欲しい。
さて、そんな8番ラーメンは家族づれにも大人気なのだが、事件は高校生のわたしと中学生の妹、そして母の三人で地元の8番ラーメンに来ている時に起こった。
塩味の野菜ラーメンをすすりながら、なぜだか母が
「とにかく一度は結婚して子供を産みなさい。離婚してもいいから、子供は産んでおきなさい。それが生き物として生まれた使命だから」
というようなことを語り始めた。
文脈はよく覚えていないのだけれど、うちの両親はこの頃しきりと子供を産めという話をわたし(と妹)にしていた記憶がある。
そのころのわたしは特に自分がフェミニストという感覚もなく、自分が将来子供を産むかどうか、なんなら自分のセクシュアリティがどのようなものなのかについても、はっきりした考えをもっていたわけではなかった。
でも、その日は、妙に悔しいような、悲しいような怒りが心の底から湧いてきて、涙目になりながら、絞り出すようにこう言った。
「わたしがもしレズビアンでも、同じことを言えるの?わたしやわたしの恋人が不妊症だったとしても?」
母は慌てて、「こんなところで大声でそんなこと言わないで」とわたしを宥めた。
わたしはもう何も言わなかったけれど、大声はともかく、「そんなこと」って何?ちゃんと答えてよ、自分の娘がレズビアンかもしれないって周りに思われるのが怖いの?と、いろいろな感情が心の中を渦巻いていた。
親であっても、私のセクシュアリティや将来妊娠するか(できるか)どうかをすべてわかっているわけではない。
それなのに、そういう可能性をまったく考えずに、他人を傷つけうる言葉を簡単に投げかけられる、ということがショックでならなかった。
同じことを、他の人にも言っているのであれば、言われた人の中に当事者がいて、私以上に傷つくことも十分あり得る。
親子だから何を言ってもいい、と思っているのであれば、それもひどく暴力的だ。
人生の中でも特に忘れられない出来事の一つだ。
それから大学入っていろいろなことを知り、いろいろな人と出会って、あの時わたしが母の言葉に感じた違和感、怒りについて、より深く考えるようになった。
両親はまるで、結婚していない人、子供がいない人は人間として、生き物として失格であるかのようにわたしに言っていた。
でも、わたしが大学時代に学んだ18世紀の哲学者にしてこの人無くして近代思想はなかったと言える存在、イマヌエル・カントは、生涯独身で子供もいない。現代の科学に大いなる貢献をしたライプニッツも、政治思想の分野で活躍したヒュームも同様だ。
彼らはある意味で、後世の何百億人の人間を生み、健康に生かすことに貢献したと言えるのではないだろうか?
我が子を生み育てることももちろん偉大な業かもしれないが、人類の未来に対して人間ができることは、もっと多様なんじゃないだろうか?
両親が当たり前のように押しつけてくる価値観は、いとも簡単に反論して打ち砕けるものだとわかって、だんだんと呪いに勝つ力を得ていった。
今では、いや、むしろ、個々人が「人類の未来」に貢献しなければいけない、なんていう考え方自体が、幻想にすぎないのかもしれないと思っている。
わたしたち自身が自分の意思とは関係なく、この家族、この土地、この時代に「生まれて」(まさに、「生む」の受け身の形だ)しまったわけで、そんな私たちに、誰が「人類の未来に貢献しろ」などと命令することができるだろうか?
生まれた理由、生きる目的、自分の幸福、自分の喜び。それらは最初から決まっていて他人から教え込まれるものではなくて、自分自身で自分自身に問い、理解し、答える、そういうものではないだろうか。
2020年になっても、性的マイノリティ(「いわゆる」LGBT)に対して、「生産性がない」とか、「少子化を助長する」とかめちゃくちゃな論理で差別をする人がいる。
しかし、わたしからしてみれば、そういう物言いをする人達こそ、この社会の将来を暗く不安定なものにしているとしか思えない。
レズビアンやゲイのカップルの中にも、いろいろな形で家庭をもち子供を育てている家族があるという現実の状況についての無知からくる差別なのは言うまでもない。
だが、そもそも、なぜ少子化を食い止めるために子供を産み育てろ、と他人に言われなければいけないのだろうか?
わたしは現在は男性のパートナーと暮らすシスジェンダー・ヘテロセクシュアル寄りのパンセクシュアルの女性だが、パートナーもわたしも子供を産み育てることを望んではいない。
わたしがそう考えるのは、両親から呪いのように「子供を産め」「生物としての義務を果たせ」「親孝行しろ」と言われ続けたことが大きく影響している。
わたしがもし子供を産んだら、両親は自分たちの考えが正しくて、それを私が受け入れたものと思って喜ぶだろう。そんなのはごめんだ。
それに、わたしの産んだ子供がレズビアンだったら?ゲイだったら?アセクシュアルだったら?性別違和を感じていたら?
わたしの両親は「孫」にどんな言葉をかけるだろう?
別に、自分の両親ばかりに原因があるわけではない。わたしもパートナーも、この社会の中で生きづらさを強く感じながら生きてきた。そういう生きづらさを作ってきたのは、差別を温存しようとする政治家やマジョリティである。
もし、わたしたちの子供がわたしたちに似ているなら、きっと同じように、あるいはもっと強く生きづらさを抱えて生きていくことになるだろう。
それをわかっていてこの世に産み落とすなんて、残酷なことはできない。
わたしたちは「生産性」とか「普通」と言う言葉を使う人たちの考える「普通の夫婦」なのかもしれない。
だが、彼女ら・彼らの言葉に傷つき、そして自分や自分の「子供たち」のために、子供を生まないと決めたのだ。
「子供を産み育てる」ことは人間の義務などではない。私たちは、国家や社会のために生きているのではないからだ。国家や社会が個々人を生かすために存在しているシステム、道具に過ぎないということを、多くの人たちは忘れている。
わたしたちはわたしたち個々人の生をよりよくまっとうするために、社会を利用する。決して社会のために人間が存在しているわけではない。
そのことを忘れて、「社会にとって役に立たない」人間を勝手に規定し、社会から排除しようとする人々は、そのことによってこそ社会というシステムが致命的な機能不全に陥りかねないということを、知るべきである。
※カバー画像はMiyuki Meinaka – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=47234043 による
・著者プロフィール
吉田瑞季
オタクに夢を売る仕事をしているオタク
演劇・古典芸能・ヤクザ映画・詩歌