実はロマンティックがわからない/「愛しても愛しても」#3(吉田瑞季)

 ゆにここは4匹のユニコーンが運営している。
4匹のユニコーンのうち、ヘテロロマンティック・ヘテロセクシャルなのはわたし、吉田ユニコーンだけである。

 だから、なんとなくメンバーの中で「ロマンティック」担当とか、「「「「普通」」」」担当みたいな立場で話したり書いたりすることもある。

 しかしーーこれはいままであまり人に言ってこなかったことであるがーーわたしはいわゆる「おつきあい」をしたことがないし、恋人もいたことがない。
20代後半の現在に至るまで、「普通の人たち」がやっている「恋バナ」には、「(ほんとうはまったく経験がないけど)そういうことあるよね~わかる~~~~」みたいな感じでぼんやりウソをつきながら参加していた。

 恋人がいなくて、告白したこともデートしたこともなくても、片想いはするしセックスもする。
ついには恋愛も交際もすることなく昨年結婚までしてしまった。同じ戸籍に名前を並べて、小さな家に2人で住んでいても、わたしと夫は恋人だったことは一度もない。

 ロマンティックがわからない、という感覚は、大学生になったあたりからずっとあった。
高校までは、まあまだコドモだし、オトナになったらわたしも片想いじゃなくて「恋愛」をして、デートして、両思いの人とセックスしたりするんでしょうなあと思っていた。

 しかし、ついにそのような日は来なかった。

 よく自分で「デートとかって何が楽しくてするの?」とか「恋愛ってコスパ悪くない?」とか言ってたし、マジでそう思っていた。

 「彼氏」とどこに行って何をするのか、まったく想像がつかないのだ。
学生のデートコースというと、映画とか、遊園地とか、水族館とか、動物園とか、ショッピングだろうか。そういう場所って、一人か気心知れた友達と行ったほうが楽しくない?
ていうか何しゃべって何したらいいの? たとえば動物園でわたしがワオキツネザルがめっちゃ見たいときに、相手が全然興味なかったらどうしたらいいの? わたしは第2次世界大戦を描いた映画を見るのが好きなんだけど、もしかしてアメコミヒーローとか好き? 困るわ~~~~。

 ラブ的な楽しさで言うと、片想いはじゅうぶん楽しいし。
というか、息ができなくなるようなときめきは片想いだからこそじゃないだろうか。一緒にいる間じゅう心臓がつぶれてたらさすがに死ぬし、そんな相手とまともな人間関係を結んでコミュニケーションするなんて無理ですよ。

 子供のころから自分が年上好きであることは自覚があって、よく「わたしおじさん好きだからさ」とか言っていたのだが、時折「え??それっておじさんと実際につきあいたいってこと?」と聞かれることがあった。
実際につきあうもなにも、「つきあう」という言葉の意味がわからないから答えようがない。「好き」は「好き」だ。

 その人のことを間近でずっと見つめていたいとか、その人の人生のおりおりに立ち合いたいとか、その人が喜ぶものを贈りたいとか、そういうのと「つきあいたい」というのは違うのだろうか?
あと、そういう風に言われるたびにイラッとしていたのだが、おじさんが好きなのと同年代が好きなのはそんなに違うのだろうか? 「同年代が好き」って言う人に「え??それって実際に同年代とつきあいたいってこと?」って聞いたら意味わからないだろう。

 「つきあう」が、「相手の時間と自分の時間を相互に独占的に差し出しあう約束」や「結婚を前提とした準備期間」なのだとしたら、わたしには必要のないことだ。わたしの時間はわたしのもので、相手の時間は相手のものだし、結婚は誰ともしたくない(したけど)。

 一方で、好きな人の最期を看取りたいとか(おじさん好きあるある)、同じ部屋にいながら別々の本を読んだりしてぼーっとしたいとか、好きな人とセックスしたいとか、そういう願望はある。そういうのは「つきあう」に入るのだろうか。

 そういう自覚があったにもかかわらず、今まではなんとなく自分が「普通の」恋愛ができない人間だということを認めるのは、自分が欠陥のある人間であると認めるような感じがして、恥ずかしくて、ずっと出来なかった。
まわりがさも当たり前のように、わたしに彼氏がいたことがある前提で接してくるたびに、交際経験がないことがばれないように必死で取り繕っていた。
なんで堂々と「彼氏いたことないし、あんまりいる意味ない気がするんだよね」って言えなかったんだろう?

 結局、恋愛しなくてもいいや、と開き直れるようになったのは、「普通の恋愛」ではなくて、恋愛抜きでセックスしたいからする、とか、生活のための互助的な同居と結婚をする、というのをやってみて、これでいいじゃんとわかってからであった。

 型通りの「普通の恋愛」をやるのをやめて、自分が楽で楽しいように人と過ごすようになってはじめて、やっと呪いが解けた。
気持ちを変えることはずっと出来なかったのに、行動から変えたら、「自分はこういう変な行動を楽しんじゃう人間なのだ」と自分を納得させられるようになった。

 ヘテロセクシャル・ヘテロロマンティックだからこそ、「普通の恋愛」の呪いから逃げにくかったのではないか、と思うこともある。
「多様性」という言葉は、自分とは違う属性の人たちのためにあって、自分はカラフルではない、「普通」だから、「普通」でいなくちゃ、みたいな、言語化すると本当にアホみたいな思い込みがあったんじゃないだろうか。
本当はわたしもカラフルな色の一部であって、変で構わないし、他の人にだってジェンダーやセクシャリティにかかわらず「普通」というレッテルを貼ってはいけないはずなのに。
自分が「普通」にとらわれているのに、他人には「多様性いいじゃん」みたいに言ってるマジョリティって、救いがないよな。

 ちなみに、現同居人(=戸籍上の夫)のことがわたしは大好きなのだが、この記事を書くにあたり「わたしたち恋人だったことある?」と聞いてみたところ「えっ、恋人ってなんなのかよくわかんないんだけど」とのことであった。

 わたしはこれからも片想いのプロとして生きる。

・著者プロフィール
吉田瑞季
オタクに夢を売る仕事をしているオタク
演劇・古典芸能・ヤクザ映画・詩歌

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