友へウェディングドレスを/「一人ひとりを包むもの」#3 (杉田ぱん)

かわいいもの好き仲間として、ともにロリヰタ服を着た友だちのひとりにゆっきゅんという人がいる。ジェンダーは、男の子らしい。BABY, THE STARS SHINE BRIGHTの白いフリフリブラウスが鬼のように似合うひとだ。

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彼は、おしゃべりがハイスピードで進んでいくので、ときどき何を言ってるのかわからない。わたしも似たようなところを持ち合わせているので、互いに好きな話を自分勝手に延々と話す。

わたしがまだ古着屋で働いていたころ、いつものようにお買い物をしに遊びにきたゆっきゅんが、ハート柄のブラウスを着て「20歳の誕生日までに着たい服をすべて着たい」と言い出した。
ゆっきゅんがまだ着ていない服ってなんだろう、とおもったが、わたしが空想するよりずっとはやく、ゆっきゅんはおしゃべりの速度を加速させる。
「まず振袖でしょ。それから下妻で着るロリヰタ。少年をおもわせる服。それからウェディングドレスを着たいの」
ゆっきゅんのおしゃべりの合いの手に、わたしはすばやく「ウェディングドレスって、花嫁が式場から抜け出すシーンしか思い浮かべられない」といった。
そのセリフを気に入ったゆっきゅんは、浜崎あゆみさんがウェディングドレス姿でたった一人ステージに立ち、歌う様子をわたしにみせて「もちろんやりたいのはコレだよ」と笑った。

わたしは話を聞きながら「そのウェディングドレス、作りたい」と申し出た。

ドレスをつくるのは、かなりの労力を要するし、ドレス作りにおける既存のパターンは女性とされてきたかたちに合わせて作ってきたものだから、たぶん手本となるようなものは期待できないだろう。

でも、だからこそわたしはそれを作るべきなのだと感じていた。
美しいものや、かわいいものを求める人間はジェンダーや、からだのかたちに無関係に存在する。
けれど、わたしが習った服装造形の世界ではジェンダーとからだのかたちは強固に結び付けられる。「女性用」「男性用」と割り振られた洋服は、その服を着る人間のかたちをはっきりと選別する。

ジェンダーと無関係に多様なからだのかたちがあるのに。
ジェンダーと無関係にさまざまなデザインを身に纏いたい人間たちがいるのに。

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「今日からのこのボディを使って洋服づくりを学んでいきます」と服装造形の担任であったY先生のハスキーな声が聞こえる。

「バスト83㎝、ウエスト64㎝、ヒップ91㎝、背丈38㎝、肩幅40.5㎝の9ARサイズ」はわたしが洋服づくりを学ぶ上ではじめて手に入れたヌードボディ(洋裁に使用する人体模型)だった。

まだ学校生活になれない一年生のわたしたちは、それぞれの作業台に置かれたヌードボディを見つめる。
同じかたちをしたそれは、ビニールで頑丈におおわれていた。わたしたちはそれぞれボディを傷つけないように、緊張しながらカッターで包装を剥がしていく。

「これは6000人の20代女性を対象に割り出した美しい洋服を作るためのボディです」と先生が言った気がするが、ビニールを剥がす音が教室中に響いて上手く聞き取れない。
無事、ボディの組み立てがおわり説明書に目をやるとさっき先生がいったセリフがしっかりと載っていた。

いまここで述べられる女性、という言葉は社会が割り振った「女性」であることを感じた。
それから美しいとされてきた服やからだの定義について。その狭さについて。

そして、自分のからだはこの9ARサイズのボディとぴったりおなじサイズであることをぼんやり考えた。わたしの好きだったロリヰタメゾンの洋服はワンサイズしかないことも。
日本で作られた洋服において、欲しいとおもった服でサイズがあわなかった経験がわたしにはほとんどない。
日本のアパレル業界において、わたしはマジョリティなのだと感じた。

同時にそのマジョリティ性は「女はトロフィーのように美しく着飾るもの」という世の中の影響を受けながら成長したものであることは忘れてはならないのだけど。

わたしが自分に美しいお洋服を着せるのは、自分が良い気分になるから、といくらいっても伝わらないことがあるのは、このせいだろう。
わたしはそれを不自由に感じてきた。

先生が得意げに「このボディは、土に還る素材できています」と一段床が高くなった教壇のうえから教えてくれた。わたしは「シャレになんねえ」とおもった。

9ARサイズのボディは、いつも「標準」であり続けた。
スカート、パンツ、シャツ、ドレスさまざまな洋服を作る基準となる型だった。
じっさい授業で使用される型は、この9ARサイズ以外ほとんど存在しない。自分にあうサイズや、メンズと呼ばれる型で洋服を作る場合、先生に直接作り方を指導してもらう。

ファッションの商業施設で1階から6階までレディース服、7階のみがメンズ服という割合は、服飾専門学校の授業でも例外ではない。
そして、1階から6階までびっしり洋服が並んだレディース服のフロアでも、その服の形、サイズは、9ARを中心としたせいぜい3つの展開だろう。

9ARのボディをレディース服の標準とし、またそのレディース服をファッションの主流とする世界で強固される価値観は、「女のからだのサイズやかたちはこうあるべきだ」「ファッションは女のもの」といったメッセージなのではないかと感じた。

だからこそ、わたしはそうではないメッセージを発する洋服を作りたかった。
わたしの自由とも、無関係とはおもえない、それぞれの自由のために。

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ゆっきゅんにどんなウェディングドレスにしたいか、いくつか質問をした。

それは普段のおしゃべりの延長線上みたいに、上品なものが好きだとか、からだにあうシルエットがいいだとか。
じっさいに着る人が目の前にいて、その人との会話をもとに作っていく洋服作りの過程は新鮮だった。

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ゆっきゅんは「男の子のぼくが、ウェディングドレスも、ロリヰタも、振袖も、似合うっていう事実をみせたい」といった。

だから、わたしはわたしの持てる力を尽くして、目の前の人間に似合うものをつくる。

自分に似合う服を着る、サイズも、テンションもぴったりハマる、そういう高揚感をわたしは知っていた。
そのたびに何度も、洋服の力を感じてきた。

わたしがりぼんやギンガムチェック、フルーツ柄の洋服を好むのは、わたしのジェンダーが女だからではない。

けれど、そういったデザインの服がある特定のからだのかたちしか作られず、そのからだのかたちにいちいちジェンダーまで結びつけられた世界ではわたしはいつまでも、それらを選んだことにはならないのかもしれない。
何よりも、そんな不自由な世界で暮らしているのは嫌だった。

服作りの術を、学んだのはたしかにあの学校だ。
何も作れない18歳が数年後、さまざまな洋服のパターンを理解し、適切な素材を選び、着るひとのからだのかたちにあわせて、洋服を作り出すことができるようになった。

技術を身につけて感じたことは、技術はたしかな力だということだ。
世界を自分の力でほんの少し、変えることができるかもしれない、たしかな力だということ。

その技術を、力を、どんなふうに使っていくべきなのか、考え続けたい。
わたしたちの、それぞれのからだのために、洋服ができることを信じて。

・著者プロフィール
杉田ぱん
フェミニストでクィアなギャル
Twitter:@p___sp

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