‪食べるのが苦手だけど生きていく/一人ひとりを包むもの#6‬ ‪(杉田ぱん)‬

一人ひとりを包むもの

完食ができない

わたしは食べ物を食べ切ることが苦手だ。
ひとりで外食をするときは、メニューと睨めっこしながら「おいしそうだな〜」と同時に「食べ切れるだろうか…」という不安が頭をよぎる。
そして、食べ物を残すと毎度焦った。

小学生の時。
クラスメイトが食事を早々に終え昼休みへ入る中、給食のメニューだったイカ飯を食べ切ることができず、ひとり教室に残る。
わたしの通っていた学校では、給食を食べ切るまでお昼休みに入ることはできなかった。

イカ飯は、学校では大人気メニューだったため、「残すの?!意味わかんない…」というクラスメイトたちの視線が痛い。
ちなみにイカ飯は、とても美味しかったのだけど、わたしにとっては単純に量が多かった。

とにかくはやく食べ終わらなきゃ……と、めちゃくちゃ焦るのだがお腹がパンパンで全く食べる気にならない。
無理やり口に放り込むのだけど飲み込めず、涙目になってくる。

追い討ちをかけるようにキーンコーンカーンコーン、と昼休みの始まりをつげるチャイムが鳴った。
給食のお皿を片付ける時間だ。

先生が呆れつつ、「残さず食べないと大きくなれないよ」と言う。
わたしは謝る。
この苦痛な時間を一刻も早く終わらせたいから、わたしは「残してごめんなさい」を言った。

だれに謝っているのかといえば、目の前にいる先生だ。給食を作ってくれたひとだ。昼休みに遊ぶ約束をしている友だちだ。

対して、銀色のトレーのうえに残されたイカ飯半分については、お箸で転がし続けると、もはや食べ物だと思えなくなってくる。
わたしが食べ物を前にして感じてきたのは、とにかく人の目線だった。
いま、あの時のイカの歯応えだったり、もち米は甘いのか、苦いのか、思い出すことは出来ない。
パッと浮かんでくるのは先生の呆れた顔だけだ。

「食べられない=叱られる」という恐怖

給食を残すと大きくなれない…と小学生のわたしはひたすら悩んだ。
先生に怒られるのも、ふつうに嫌だ。最悪だ。怒られたくない。
食べ物を前にすると、そういう嫌なことで頭が支配されて余計に食べれなくなった。

家に帰っても、食べられないので食事を作った父にも申し訳ない気持ちになった。
ある日、父が作ったクリームシチューを一口食べて、もうこれ以上何かを飲み込めない感覚に襲われた。
ふしぎに感じる人もいるかもしれないのだが、お腹はぐうぐう鳴っている。
全然食事を取っていなかったから、空腹のはずだが、脳みそがバグっている。

いくらシチューを見つめても全く食欲がでないので仕方なくごちそうさまを告げると父が「もういいの?」と尋ねた。

わたしは食べ物を残してしまう申し訳なさと、食べたくても食べられないという、行き場のない怒りでぐちゃぐちゃになって、ピンと張った糸がぷつんと切れたように泣き出した。

父は落ち着いた様子で「自分がちょうどいい、とおもったところで食事はやめていいよ」といった。

学校で言われてきたこととは違うから、最初は受け入れられなかったけど、わたしは父からもらったその言葉をあれから繰り返し自分に言い聞かせることになる。

子ども時代、褒められること、叱られることは今よりもずっとわたしに影響を与える行為だった。

学校で食べ残して叱られるという経験を重ねるうちに、食べるときには誰かに見られていて、食べ残したり、洋服にシミを作ったりしたら怒られるんだという強烈な回路ができていた。

それは自分にとって非常に居心地の悪い時間だった。常にびくびくしながら食べていたので、「おいしい!」と感じる余裕はない。
食べることへの苦手意識はどんどん膨らんだ。

そうして自分は食事をする資格がないんじゃないか?と思うようになる。
みるみる体重は減り、摂食障害という病名が診断された。

たった一人で食事をすることで変わったこと

21歳になり、一人暮らしを始めると毎日外食をすることがしんどくなってきた。
一人前を食べ切ることがやはり難しいのである。
食べたい!腹減った!と思っていても、全然食べ切れないので自分でも驚く。

食費もかかるし、量の調節もできそうだから自炊でも始めるか、と簡単なものから料理をするようになった。

はじめは、ハヤシライスとか、カレーとか野菜と肉を炒めて水と市販のルーを入れれば完成するような簡単なものを作った。

ハヤシライスのルーの裏側に書いてある材料を確認しながら、スーパーでひとつずつ食材を集める。牛肉に対しての玉ねぎの多さに驚いたし、玉ねぎを切ると目が染みて、切った後の手はしばらく臭かった。
何よりも新鮮に思えたのは、例えわたしが食事を残しても、誰かの目線を感じないことだった。

誰かの目線を感じずに食べたハヤシライスは、噛むときちんと牛肉の甘味を感じた。
そして今まで、この牛肉の味を感じたことはなかった。
牛肉を噛めば「これを残したら料理を作ったひとや、いっしょに食事をしているひとは残念におもうだろうか」とか他人にどう思われるかばかりに思考を費やしてきた。
牛肉の味を感じるまもなく食事の間中ずっと、そのことを考えた。

とにかく、残さないように、緊張しながら食べ物を噛む。味わうなんて余裕はどこにもなかった。

だれかに、自分の食べ方について言及されない環境で食べる牛肉は噛むたびに、口の中にじんわりと甘味が広がった。
噛むたびにそれを感じる。
ただそれだけのことが、どうしようもなくうれしかった。
このよろこびを、このたのしさを、できればずっと味わいながら生きていきたいと思った。

実家でも一人で食事をすることはあったけど、何かを残せば冷蔵庫やゴミ箱にそれらの形跡は残るから、食べ残しをしたことを家族に知られてきた。
家族のなかの誰かが、そのことについて何か言うことはなくても、食べ物を残したことを誰かに知られること自体がそのときのわたしは苦しかった。

ひとりで暮らす家で、食べ物とわたしははじめて一対一で向き合うことができた。
そうして「食べる」という行為は、自分が生きるためのものなのだと、誰のためでもなく、自分のための行為なのだと、随分時間をかけてわたしは知った。

それからとりわけ料理をすることや、食事の時間は少しずつたのしい行為へと変わっていった。

自分の食事を自分好みに

ただステーキを焼くだけでも、上にかけるソースにはわたしの好みがあった。
バルサミコ酢とハチミツと、クレイジーソルトを混ぜた酸っぱいソースがわたしは好きだ。
そういうことを知っていくことが一つひとつ、うれしかった。

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自分が食べる食事を、自分の好きなお皿の上に丁寧に盛り付けてからいただきますを口にすると目の前の食べ物をずっと大切に思えた。

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お洋服やインテリアをコーディネートするようなたのしさを食事を用意するときにも感じることができた。
自分の持ち物で、今日食べる食事を最大限おいしそうに、美しく盛り付ける行為は「今を生きている」という当たり前のことをわたしに強く実感させる行為だった。

自分が生きるために生き物を食べる

わたしは豚も、牛も、鶏も、トマトも、りんごも、食べる。
それらは以前、生きていたものだ。
だから食べ残してしまうことがあれば今も嫌な気持ちになる。これは食べ物に対してのわたしなりの、敬意なのだとおもう。

ただ、誰かが「いただきます」というときは、まっすぐに食べ物を見つめられるような世界であってほしいと願う。

人が生き物を食べるのは、その人が生きるためだ。
他人が簡単にその人と食べ物との関係に立ち入ってはいけない。

誰かがもうお腹がいっぱいで食べられないとき、無理に食べさせたり、その人を責めるようなことをどうか言わないでほしい。
ときに、命に関わるようなデリケートな話題なのだと知ってほしい。

食べ物を前にして以前感じていたような緊張感がまったくない、といったら嘘になるし、食べ残しをするときは、罪悪感がある。
それでも、わたしはわたしのために今日も食べる。

・著者プロフィール
杉田ぱん
フェミニストでクィアなギャル
Twitter:@p___sp

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