なんらかのクィアな属性を自認している人は、「いつ自分がそうだと気付いたんですか」という問いを投げかけられることがよくあると思う。
わたしの場合、二十歳くらいのときに、「自分以外の人たちがアセクシュアルでないことに気付いた」。
それくらい、自分のアセクシュアル的な性質はわたしにとって自然で、それ以外の感覚はわからなかった。
わたしは「面倒くさい人」「ちょっと怖い人」だと思われることが多かった。
それは理屈っぽくて嘘がつけない性格のためでもあるのだけれど、そこにアセクシュアルという性質が加わると、まるで誰でも盛り上がれる無難な話題みたいに「好きなタイプは?」「初恋はいつ?」「彼氏いるの?」という問いを振られるたびに、愚直に「恋愛には興味がないので」と答えることになる。
その時点で、場はちょっと白けたりする。
それでも「あ、そうなんだ」で終わるならいいのだけれど、終わらない。
なぜ、と問われる。恋愛にトラウマでもあるのか、男の人が苦手なのか。
一方的に質問攻めに遭っていると、恋愛をすることは疑問の余地がなく自然なことで、恋愛をしないのは何か特別な理由が必要なこと、という構図が出来上がってしまうのが嫌で、わたしは問い返してしまう。
では、あなたが恋愛をするのはなぜ?
そこに疑問の余地があると思っていなかった相手はすっかり閉口して、わたしのことを煙たがる。
難しい議論をふっかけて、楽しい会話に水を差す奴だというレッテルを貼る。
その話題を持ち出してきたのはあなた方なのに。
そんなある日、わたしのタイムラインに、「最近は自分のことアセクシュアルとか簡単に言う若者が増えてない? まだ若いのに決めつけるのはよくないよ」といった内容のツイートが流れてきた。
それが、アセクシュアルという言葉を知ったはじめだった。
決して肯定的な文脈ではなく、アセクシュアルについての非常によくある偏見に満ちていた。でも、偏見部分は素通りしてしまうくらい、アセクシュアルという概念は腑に落ちた。
ああ、そういう概念があるということは、みんなはアセクシュアルじゃなかったんだ。
思想や見解の相違ではなく、生まれついてのセクシュアリティの違いだったのなら、わたしの「なぜ」に納得の行く答えが返って来なくても、あの人たちがわたしを理解できなくても、仕方ないのかもしれないと思えた。
理解する必要はないのだと。セクシュアリティの違いだと思えば、違っていて当たり前のものとして他の人たちの「恋愛」を尊重してあげられる気がした。
わたしはもう、他の人たちが大切にしているらしい「恋愛」の話題で、相手を傷付けたり動揺させたりするのは嫌だった。
それからわたしは自分のことをアセクシュアルだと表現するようになった。
だから、この自認にはちょっとした屈折がある。
他の人たちがアセクシュアルではない「セクシュアル」だ(最近になって知ったが、アロセクシュアルとかZセクシュアルと呼ぶらしい)、というのがわたしの発見だったのだけど、実際には「わたしはアセクシュアルです」という表現になる。
そこにはみずから檻の中に入るような意味もあった。セクシュアルの人々の、自分たちこそは普通で自然だという意識を傷付けないために、こちらが「わたしはこういう、普通ではないものです」と名乗ってみずからを隔離するような。
セクシュアリティという概念で自分を表現することには、なんだかしっくり来ないものを感じてもいる。
セクシュアルなものごとに関心がないのに、いちいちセクシュアルなものごととの関係性において自分を表現しなくてはいけないということに違和感があるのだ。
だから、もし「自分はアセクシュアルかもしれない」と思っている人に相談されたら、無理してひとつのラベルを自分に当てはめる必要はないということは伝えたいと思う。
無論アセクシュアルであることを自分のアイデンティティとして誇りに思ってもいい。でも自分にラベルを貼るのが嫌だったら無理に自認しなくていい。
「アセクシュアルの人の体験談に共感を覚えるけれど、自分のことをアセクシュアルだと言っていいのか自信がない」という人もいると思う。セクシュアリティに資格なんてないから、自分が楽になれるようにアセクシュアルという概念を使ったり使わなかったりすればいい。
自認していても、それを人に話さなくてもいいし、話してもいい。
わたしは、葛藤はありつつも、アセクシュアルを名乗っている。
それは、マジョリティの人たちへの優しさのためだけではなくて、そう名乗ることで世の中を少しでもよくできるのではないかと思っているからでもある。
わたしが事あるごとにアセクシュアルという言葉を使うことで、周囲もこの言葉を覚えてくれて、アセクシュアルの存在を知ってくれるようになった。恋愛に興味がない人間や、恋愛の話が苦手な人間がいることを、少しずつ受け入れてくれるようになった。
「自分もアセクシュアルかもしれない」と考え始める人たちもいた。
わたしがアセクシュアルを名乗ることは、アセクシュアルの存在を周知させる一人キャンペーンみたいなものだ。
アセクシュアルを自認しているけれど名乗れない人の分も、アセクシュアルを自認することに躊躇いがある人の分も、自認はしていないけれど似たような体験を共有している人の分も、わたしが恋愛や性愛に興味がない人の存在を知らしめていくことができる。
そうすれば、少しは生きやすい世界が作れるはずだ。
今はもう、わたしのことを面倒くさいと思うような人とは関わらない。
「好きなタイプは?」とか「なんで恋愛に興味ないの?」とかわたしに聞いてくるような人は周りにいなくなったし、恋愛の話をされることもなくなった。
嫌な人間とは距離を取り、楽しく生きているアセクシュアルの姿をお見せすることも、アセクシュアル一人キャンペーンの一環として意味があると思っているから。
そういうわけで、名前をつけて呼ぶことへの葛藤は持ちつつ、それでもわたしは、今のところはこの名前を名乗り続ける。
・著者プロフィール
川野芽生
短歌、小説、エッセイ、評論、論文などを書いています。
twitter: @megumikawano_