二十代最後の年、ロリィタにはまった③/「A is for Asexual」#8 川野芽生

幼き日のエイジズム

このシリーズの第一回で、わたしは「もう、ロリィタが似合うような年齢は過ぎてしまったのではないかと感じながら」と書いた。
こういうかわいいお洋服って、似合うのは若い時なのに、若い時に買えるお値段じゃなくない? と矛盾を感じていた。
ここで、エイジズムの話をしなくてはならない。

幼少期、わたしはとてもかわいかった(自分で言うのも何だが、といった枕詞を冠するのはわたしの主義に反するのでしない)。
お人形さんのようだった。
しかし、子供の頃というのは自分の意志で服を選ぶことができない。
第二回で書いたように、わたしの両親はわたしを飾り気のないボーイッシュな子供に育てたがった。
それはそれで両親の趣味からすればたいそうかわいかったようだが、わたしは不服だった。

小学校高学年のある日、わたしは自分の写真を見て愕然とした。
そこにはわたしの知らない、不格好な子供が写っていた。
それはいつになく写りの悪い写真だったのだろうが、それを見た時、「わたしのかわいかった時期は終わったんだ」と思った。
やがて成長期に入り、背が伸び、体重が増え、日に焼け、にきびができ、外見がどんどん変わっていく中で、「自分の一番かわいかった時期は過ぎた」という思いは一層強まった。
心残りは、せっかくかわいかった、もう戻らない時代に、きっと似合ったであろうかわいい格好ができなかったことだった。

そんなわけで、わたしは普通なら二十代の終わりとか三十代くらいに抱くであろう「自分はもう若くも美しくもない」という諦念をなぜか十代のはじめから持っていた。
エイジズムにもほどがあろうというものだ。

おしゃれが楽しくなってきたわけ


中高はずっと制服で過ごし、大学に入ってから、再び私服を着るようになった。
バイトを始めて、自分で服を買えるようになった。
手の届く範囲で好きな服を買って着られるのは嬉しかった。
しかし何分にもファッション経験値は低いし知識もないから、自分のファッションに自信はなかった。

わたしが積極的におしゃれを楽しめるようになったのは、二十代の半ば頃からだったと思う。
それまで「いつかお化粧が必要な機会が来たときのための練習」と捉えて消極的にやってきたメイクも急に楽しくなり、「正しいやり方」に捉われずに好きなようにやれるようになったし、ハードルが高いと思っていた古着屋にも入れるようになったし、ドレスみたいなお洋服も買っちゃうようになった。
周囲を気にせず、かわいいと思った服を臆せず手に取れるようになると、服をかわいいと思い、自分に似合っていると思う感覚に自信が持てるようにもなった。

大学院に進み、学年が上がって、日常的に会う人の数が減ったのも一因かもしれない。
一方的に外見や服装をジャッジしてくる人が周りにいなくなって、気が楽になったのだ。

また、年齢が上がったことで、「若い女」として他者から求められている感覚が薄まったためでもある。
かわいい格好をしても以前ほどは周りに勝手に消費されたりしなくて済むのではないか、と感じたのだ(まあ、それが期待外れだったと感じる場面もまだまだあるのだが)。
それまでは夏でもなるべく肌を覆い体のラインが出ないような服を着ていたのが、腕や脚を出しても平気になった。

年齢が上がることで解放されていくのを感じたことで、ずっと引きずっていたエイジズムから自由になっていった。
メイクが楽しめるようになると、昨日よりは今日、今日よりは明日の方が、技術も上達しているし審美眼も向上しているから、一層かわいくなっているはずだ、と思えるようになった。
いつだって今日が今までで一番かわいい、歳を重ねれば重ねるほど美しい、と。
日々磨かれていく自分の審美眼が、知性が、内面が、ファッションにも反映されているはずだ、と。

ロリィタにはもう遅い?


ロリィタ服を着るにはもう遅いのではないかとずっと思っているうちに何年も過ぎた。
でも、いつだって今がこれまでで一番かわいいし、いつだって今がこれからの中で一番若いのだ。
着るなら今だ、とわたしは不意に心を決めたのだった。
そして第一回の、「来月、原稿料でロリィタ服を買うぞ」という決意に至る。

もう子供の時のように、「あの時はかわいかったのに、好きな服が着られなかった」と後悔するのはごめんだ。
今着たい服を着なければ、安心して年を取れない。
そんなふうに思うわたしはまだエイジズムから逃れられていないのだろう。
ほんとうにエイジズムから自由になれていたら、別に六十歳から着始めたっていいと思えるはずだ。

でも、少なくとも今、自分がしたい格好をする力は手に入れた。
ロリィタ服を着てみたら、六十歳になってもこの服を着たいと思えた。

似合うとか似合わないとか、きれいとかきれいじゃないとか、そんなことはどうだっていい。
ほんとうはそっちの方を、声を大にして言いたいと思う。
似合わない服を着たっていいし、世の中の基準で「きれい」と認められる外見などなくて構わない。

ただ、この話は、わたしが自分をかわいいと思い、似合う服を着られるようになった話であり、子供の頃に手に入らなかったものは取り返せるというものがたりなのだ。

自分がしたい格好をする力と、今の自分を肯定する力を持って、歳を重ねていきたいと思う。

・著者プロフィール
川野芽生 
短歌、小説、エッセイ、評論、論文などを書いています。
twitter: @megumikawano_

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