告白を断ること/「A is for Asexual」 #4(川野芽生)

A is for Asexual

アロマンティックが告白されると

「なんで恋愛をしないの?」と問い詰められることの厄介さの話を前回書いたけれど、そうした場面の中でも面倒なのは、相手がこちらに恋愛感情を持っている場合だ。

告白されて、「恋愛に興味がないから」と断ると、相手はなかなか納得しない。
恋愛に興味がない人間の存在が信じられないようなのだ。
それで、恋愛に興味がないってどういうこと? どうして? などと聞かれることになるのだけれど、それは単なる問いではなくて、説得の圧力を含んでいる。
なんで? どうして? と食い下がられて、恋愛に興味がない理由をいちいち説明させられるのは、とてもしんどい――という話は、前回書いた通りだ。

「付き合いませんか?」と言われて「付き合いません、以上!」で終われるならいいのだけれど(それよりいいのはそもそも告白なんかされないことだが)、それができない。

恋愛中心主義的な社会は、告白された側に多大な負担を強いる。

告白された側は、相手を傷付けないように優しく丁寧に断らなくてはならないことになっているし、「ありがとう、気持ちは嬉しいけれど、ごめんなさい」というテンプレートで答えるのが礼儀とされている(ありがたくもないし気持ちは嬉しくないしごめんなさいは相手の方でしょう?)。

「上手に」断らないと相手が逆上したりストーカーになったりしても自業自得であるかのように言われさえする世の中だ。

なぜ「恋愛に興味がない」と答えるのか

実際、断り方が悪いと言われることがある。

「恋愛に興味がないから、じゃなくて、あなたの顔がタイプじゃないから、って言えばいいよ」とアドバイスをくれる友人もいた。
実際、そう答えた方が相手も諦めてくれるのだろう。
でも、そうしなかったのには二つ理由がある。

第一に、嘘を吐くのが苦手だからだ。
セクシュアルマイノリティの人が恋愛の話を振られて、空気を読んで異性愛者っぽい答えを返す、といったように、マイノリティが物事を丸く収めるために嘘を吐かされる場面は枚挙に暇がない。
わたしはそれが嫌だ。

補足しておくと、そういう場面で嘘を吐く選択をする人に、嘘を吐くなと言うつもりは全くない。
むしろ、そういう人には、それを偽りだと思って自分を責めなくていい、という言葉をかけたい。
悪いのは嘘を吐くことを強いてくる社会なのだから。

ただ、わたし自身はどういう場面であれ本心と違うことを言いたくないのだ。

第二に、そういった返答は恋愛至上主義的な価値観に沿ってしまっているからだ。
「顔がタイプじゃない」でも「性格が好きじゃない」でも「食べ方が気に入らない」でも、何でもいいけれど、「相手の資質に欠けたところがあるために恋人として不適合である」という言い方をしてしまうと、「恋人は友人より上位の存在であり、特別に優れた人だけがなることができる」という前提に同意したことになる。
それでは、わたしは「友人という、恋人より一段劣った相手しか持たない」人間なのか?
それはわたしにもわたしの友人にも失礼に過ぎるだろう。

相手がどんなに素晴らしい人でも、恋人にはならない。
相手が嫌いになったとしても、それは恋人として不足だからではなく、恋愛をしたくないというわたしの気持ちを踏み躙って、友人としての信頼を裏切ったからだ。

「経験すればわかる」と言うな

交際を断ったときに言われる台詞で特にうんざりさせられるのは、「今まで恋愛をしたことがないから興味がないと思い込んでいるだけじゃないの?」「付き合い始めてから好きになることもあるのだから付き合ってみてほしい」といったものだ。

女子校を卒業して大学に入学したばかりの頃、特にそう言われた。
今まで異性との出会いがなかっただけなのに、自分は恋愛をしないと決め付けてはいけない、というのである(それはそもそも異性愛中心的すぎる発想である)。

経験すればわかる、経験しなければわからない、という考え方がわたしは嫌いだ。

たとえ一度誰かと付き合ってみて、やっぱり違うなと思ったとしたって、「それは本当の恋愛じゃない」「本当にいい人にまだ出会っていないのだ」と言われ、「恋愛は人生に必要だ」という社会の用意した正解に辿り着くまで永遠に「経験」を積まされるに決まっている。悪魔の証明だ。

そもそも人間関係は、自分という人間が他の誰とも違い、相手もまた一人ひとり違う人間である以上、すべて別種の「経験」にならざるを得ないはずで、「恋愛経験」などとひとくくりにはできないものだ。

人間関係以外の経験も然り。

どんな経験からどんな意味を引き出すのか、それは一人ひとり全く違うはずだ。
皆と同じこの「経験」をすればクリアで、何かがわかる、というものではない。

何かを「しない」というのも、「した」人にはわからない経験であるはずだ。

恋愛をしてみなければわからないと言うのなら、あなたも「恋愛をしない」経験(一時的に恋人がいない、とかではなく、恋愛をしない人間として生きること)をしてみたらそっちの方が向いていることがわかるかもよ、と言いたくなる。

だから、規格化された「経験」のセットをひとつひとつクリアしていくような「人生経験」観は、「経験」を重視しているようで、表層的にしか「経験」を見ていない。

そのへんでばら撒かれている「人生経験」ビンゴみたいなやつって、なぜその項目のラインナップなのかってところに合理的な理由も何もないのだし。
この世界には無数の「経験」があって、人間はその圧倒的多数を経験せずに生きて死んでいくのだ。

わたしはピンクの髪をした歌人だけど、たいていの人が髪をピンクに染めもせず短歌を作ってみもしないことについて、「髪をピンクにしない人生は貧しい」「まだ短歌を作ったことがないからよさがわからないだけだよ」と言うつもりはない。
それなのに、なぜ恋愛を経験しないくらいであれこれ言われなくてはならないのだ。

「恋愛をしない人生なんて貧しい」「恋愛をしたことがないなんて未熟だ」と言われたこともあるけれど、大きなお世話だとしか言いようがない。
そんな人生観の方が貧しくて未熟だ。

だいいち人間には知性があって、自分で直接経験していないことでも聞いて考えて理解することができる。
はじめから向いていないとわかっている恋愛をわざわざしてみる義理もない。

みんながやっているように見えることでも、やりたくなければやらなくていいし、誰もやっていないように見えることでも、やりたければやればいいのだ。

・著者プロフィール
川野芽生
短歌、小説、エッセイ、評論、論文などを書いています。
twitter: @megumikawano_

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