「キス代のダンスレッスン体験記」/長田杏奈

カルチャースクール

 踊れる体に憧れつつ、「向いてない」と諦めていた。いつかの体験レッスンで、鏡に映る自分の先生とは似ても似つかない垢抜けない動きが、ひたすら気まずく恥ずかしかったから。けれど、本当は向き不向きなんてなかった。オギャーと生まれてからこっち、私はとっくに踊れる体で、ただ体が好きに踊ることをゆるしてあげればよかったのだ。これは「鏡を使わないコンテンポラリーダンス教室」が教えてくれたこと。

「鏡を使わないコンテンポラリーダンス教室」の講師 キス代先生

 現代の身体は、頭や心の便宜に引きずられて後回しにされがちだ。生活を回すため、課せられた役割や義務を果たすため。ありとあらゆるもっともらしい理由のもと、動きたいように動き、休みたいように休むことさえも難しい。身体には「こういう外観でこういう装備でこんな動作をするのがスタンダードである」という決めつけがつきまとい、そういった暗黙のスタンダードを前提に設計された道や建物や衣服に取り囲まれている。「普通」や「平均」とのズレを意識させられ、他人からのジャッジの眼差しに晒されるだけならまだしも、身の内からも自縄自縛の訝しげな眼差しが向けられる。

 何かと窮屈な身体の解放は一朝一夕には果たせないけれど、「鏡を使わないコンテンポラリーダンス教室」には、確かな身体復権の手応えがあった。ご機嫌なレオタードに身を包んだキス代先生によれば、この講座には「自分の体と出会って向き合う、自分の体の限界に気づく、自分の体を許してあげる」きっかけをプレゼントする狙いがあるという。「働くためや、誰かの役に立つための体の動き」から距離を置き、自分の身体を見つめ直す。「自分の体にはどんな限界やしがらみがあって、どういう身体的または精神的な制限があるのか」に気づく。さらに、講師が求める正解の動きや、「こんな風に動いたら変だと思われるかも」という屈託から自由になって、自分の身体を許す。そういう機会を目指すレッスンは、「ダンス教室」と聞いて思い浮かべるイメージとはよい意味でかけ離れている。 

 必要なのは、シングルベッドほどのスペース。結界を張る祝詞のごとく「グランドルール」が読み上げられ、この場がハラスメントや差別、バウンダリーの侵害に脅かされることなく、純粋に遊び学ぶことができるセーファースペースであることが宣言される。この場所では正しい姿勢や美しいポーズ、かっこいい動きを真似る必要はなく、興が乗れば声を出したって大丈夫。「体型や運動能力、体の柔軟さ、ジェンダー、病気や障害の有無にかかわらず、すべての人が踊る楽しさや自分の身体の動き、表現する喜びを感じられるダンス」を目指す教室に、日頃私たちを覆う”暗黙のスタンダード”圧の影はない。

 まずは、モニターに映る鏡像を非表示に設定。簡単なストレッチから始まり、ごろりと寝転んだまま、キス代先生が投げかける言葉やイメージ(自動字幕つき!)を手がかりにアドリブで体を動かす。肺の動きにつられて、自分の体がどう膨らんで縮んだのかを感じてみる。体をシェイクしながら、振動のエコーを全身に伝える。自発的に揺れるのと、誰かに揺さぶられるイメージで揺れるのとでは、体の動きが全く違ってくるから面白い。振動をどんどん増幅させ、マックスまで揺れてから脱力。体は止まっているのに、全身の細胞がさざめくような余韻にひたる。骨盤、胸、肩、肘、あご。さまざまなパーツを使ってぐりんぐりんと円を描く。ワカメの気持ちでゆらゆらと。体の中にブラックホールがあるように。伸ばした手で虚空に浮かぶお肉をこねるかのごとく!

 勝手知ったる体に息づく、あられもなくアンコントローラブルな躍動の種。寝っ転がったまま、こんなにクタクタで爽快になったことはない。身の内に埋まっている、名もなきこうあらなければ、こう見えなければ、こう動かなければを手放して。鏡像のないオンラインスタジオで「踊れる私」を知ったあの時間は、動的セラピーと言えるひとときだった。

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著者プロフィール

長田杏奈

犬と植物を愛するライター。猫も好き。


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