尼寺から追い出された山姥の詩

ゆにここエッセイ

6月から続くゆにここプライド特集。最後を飾るのはトランスジェンダーと時間の研究をしている大学院生・キス代さんによる、トランスの居場所をめぐるエッセイです。ぜひ最後の最後まで、じっくりとお付き合いください。


尼寺から追い出された山姥の詩

わたしは尼寺を訪ねて、怪物であるがゆえに追い出された山姥のなれの果てだ。

 

全ての人が、生まれたときの性器の形によって、生き方を矯正される。

予め決められた未来に逆らって生きようとすると、たくさんの罰や不利益がある。

 

<未来の約束>

「子ども」とは未来の象徴とされている。人間の存在意義が、必ず死に絶える「個」ではなく「種の保存」へと還元されるこの社会において、障害のない異性愛者たちの適切な仕方での生殖/再生産こそが正しい未来を延長する手段であり、「子ども」は未来の象徴なのである。

しかし、そうした象徴としての「子ども」から除外されるクィアな子供(※1)、有色の子供、障害のある子供たちは、始めから未来を期待されず、常におぞましい他者として想定される(※2)。再生産の失敗や死と結びつけられるクィアな人々は、異性愛中心主義社会の中では「子ども」が象徴する未来を脅かす存在なのだ(※3)。

だからこそ、クィアな子供たちは、どこに向かって育っていけばいいのか、自分たちの未来はあるのか、と苦悩する(※4)。理想的とされる異性愛者たちは、この世に生を受け、思春期を経験し、就職し、異性と恋愛をし、結婚をし、子供を産み育て、死を迎える。あるいは、その正しい道に沿って歩かせるため、その道を幸福として欲望するように教育される。こうしたリニアで”ストレート”な道筋を歩むことのできない人々は、舗装すらされていない横道へと逸れ、時折仲間たちと遭遇し、異性愛規範とは異なる継承や未来を紡ぎだそうとする。

では、トランスジェンダーであり、かつ男女二つに分けられた性別を生きることが出来ず、かといってラディカルでたくましいクィアを引き受けることのできない脆いわたしは、どんな未来を想像できるだろう。大人になった今でも、わたしには明るい未来が見えない。

 

<トランス・フェミニンの予言=負債>

わたしの未来は決定されている。そう思う。

男という分類を生きられずに死ぬか、外性器再建手術のために200万の借金を背負った挙句、二週間に一度数千円のエストロゲンを注射で補充し続ける負担を背負って、生殖能力もなく、社会によって女あるいは男の外側に放り出され、社会的同情やサポートを受けずに死にゆくかである(※5)。

日本では2003年に「性同一性障害特例法」が成立した。同法では一部改正を経て、現在成人であること、未成年の子供がいないこと(※6)、結婚していないこと、生殖腺を喪失させ外性器を規範的な見た目にする手術を済ませることを、戸籍上の性別を変更するための条件として定めている。ここには同性婚を憎む思想、特定の人間のみが生殖を行うべきであるという優生思想、外性器を唯一神聖なものとして崇拝し逸脱を矯正しようとするシスジェンダー規範に基づいた科学思想、トランスジェンダーは子供にとって危険な存在であるという思想など、非規範的な性を生きる人々に対する多種多様な偏見と暴力が凝縮されていると、わたしは思っている。

さらに、トランスの人々はこうした手続きをほぼ自費で行わなければならない。まるで規範を逸脱した罰を背負わせるかのように。

日本では2018年に、内外性器の摘出・再建や乳房切除など外科手術に対する健康保険の適用が開始した。しかし保険適用で外科手術が受けられるのは、実のところホルモン補充療法をしていない人の乳房切除手術のみである。なぜなら、トランスジェンダーに対するホルモン補充療法は、保険適用から除外されているからだ。

詳しく説明しよう。日本の保険制度には、同一診断内で保険適用の医療行為と自費の医療行為を併用できないという「混同診療」問題がある。性腺を摘出する手術が保険で出来たとしても、その後自費でのホルモン補充が必須となるため、外科手術自体も遡及的に混合診療とみなされてしまう(※7)。だからいずれにせよ、外性器の再建手術を望むトランスジェンダーは、約200万の手術を自費で受けなければならないのだ(※8)。

戸籍の性別変更や外性器の手術を望むトランスジェンダーたちは、生まれながらにして社会から数百万の借金と精神的な孤立を背負わされている。わたしたちの身体は、そして未来は、医者の診断や、戸籍制度や、お金、人間関係、社会の偏見、トランスではないシスジェンダーの人々によって決定されている(※9)。

規定された未来のなかでも最も最悪なシナリオを迎えないように、トランスジェンダーたちは、常に未来の危険に備え、裏切られ、更なる戦略を編み出し続けてきた。

けれど、そんな未来をいつまで生きていられるのか、時々耐えられないほどの不安をおぼえる。そして、エイジングとともに社会や友人から見放されていく未来がわたしには怖い。

わたしの未来を制限されたくない。

でも、未来が暗闇に飲み込まれた不安定な生活にはとても耐えられない。

その先が見えない吊り橋の、か細くグラグラ揺れる板の上を進むことはとても恐ろしい。

誰かがわたしだけのために作ってくれた、約束された道を歩きたい。

どこにもない可能性を夢見て生きていけるほど、わたしはもう元気じゃない。

わたしが生きられない此処ではなく、どこか別の場所と時間を、せめて想像したい。

 

<性別という制度からの逃れられなさ>

この暗い未来の約束から抜け出して、「性別のない人」として社会で生きていくことはできない。

女性ではないものは、男性である。男性ではないものは、女性である、とされる。その判定は、わたしの意思とは無縁に、生まれたときから死ぬときまで継続的かつ反復的に行われ続ける。

だからこそ、規範から外れるがゆえに「怪物的(※10)」とみなされる人々は、生まれたときに割り当てられた性別の枠組みから容易に逃れることはできず、そうではない別の何かになれないとされる。その人の意思に反して女性や男性としてみなされ続けたり、不本意のうちに現実と乖離した「F」や「M」などの記号を付与されたりする。あるいは、男でも女でもない別の何かなど、文法のレベルで今の社会には存在しないことになっており、その存在の気配が漂うや否や、怪物として罰を受ける。

もうこりごりである。自身の存在について悩み続け、説明する責任を負い、わたしたちの存在を抹消しようと暴力的な言葉を浴びせ続ける人たちと向き合うことに、その暴力を見過ごし続けるシスジェンダーの人々を憎悪することに。

怪物を抹消しようとトランスジェンダーへの恐怖を扇動する人たちに、その扇動に無関心でいられる人たちに、少しでも届くことを願って、わたしが泣きながら読んだ、トランスジェンダー研究者のスーザン・ストライカーの言葉を召喚してみたい。

わたしの体は出産出来ない。わたしは傷が無ければ出血すらできないにもかかわらず、ひとりの女性であると主張する。どうやって?なぜわたしはいつもそう感じてきたのか?わたしはまるで神に呪われたフリークだ。わたしは他の女性と同じように女性であることはできない。けれど、男性であることも決してできなかった。たぶん、全ての創造物の中で、わたしのための場所などまるでどこにもないのだ。わたしはこの終わりのない瞬間にとても疲れた。わたしは自然と戦争する。わたしはわたしであるということから疎外される。わたしは自分自身を切断した奇形であり、変態であり、変異体であり、怪物的な肉体に閉じ込められている。神よ、私はもう二度と閉じ込められたくない。わたしは自分自身を破壊し続けてきた。わたしは闇へと飛び込み続け、自分自身をバラバラに崩壊させづけている。

Stryker, Susan. “My Words to Victor Frankenstein Above the Village of Chamonix.” The Transgender Studies Reader. Routledge (1993): 251.

規範から外れた怪物のわたしは、男で居続けなければならないのだろうか。社会はそう言うし、女たちからもここから出て行けと言われるのなら、わたしはどこにたどり着くのだろう。ここから出ていくとしたら、それはこの世界から出ていくこと、もはや世界に存在しないことだろう……。

あてなく絶え間ない船旅を終えてしまった夜のそらさん(※11)と、船旅の途中で海へと沈んでしまったわたしの友人に行き場のない思いを馳せる。社会を憎む。

わたしにとって、男性というものから逃れることは、女性として生きることではなかった。わたしたちが生きる社会で、いま女性というものが帯びる意味や理想をわたしが十全に体現できるとはとても思えなかったし、そもそも誰からも歓迎されない場所に自ら出向くほど、わたしは楽観的にはなれなかった。

それなら、わたしが生きる異なる場所≒身体を想像したい。

 

〈二つではない身体〉

抑圧の交差のなかで、どのような見た目と肉体と法律上の表記と名前と社会保証があれば、わたしは安心して生きられるのだろう。今ここにないわたしのあり方をかき集め想像する。

性別を解釈しづらい装い、平らになった胸、外性器を封鎖し尿道だけの体になったわたしを、社会はどう分類するだろう。

フェミニンな装い、エストロゲンを絶えず補充し心ばかり膨らんだ胸と、睾丸と陰嚢を除去し、2cm程度の排泄器官を持つ体になったわたしを、社会はどう分類するだろう。

そうはいっても、膣やペニスといった欲望の対象となりやすい器官があったほうが、経済的にも社会的にも孤立せず、不安定な未来や心の不安性さを少しでも和らげることが出来るだろうか。

 

<身体の社会経済的価値>

そんなことを考えてしまうのは、未来がないと感じてしまうからこそ、突如として現われた特定の個人が未来の不安を解消してくれるという一抹の期待を、出会い系サイトやマッチングアプリに委ねてしまうからだろうか。

シンデレラの物語を思い出してみる。あれは単に魅力的な人物が手を差し伸べてくれる物語というより、他者からの抑圧や経済的困窮という物質的な条件によって苦しめられる現実からの解放を夢見る物語であると、わたしは思う。重要なのは「王子様」との恋愛・性的関係などではなく、シンデレラが自らの身体や女性性を駆使し、(一時的であれ)苦境から解放される点にある。シンデレラ幻想を抱くことは、決して悪いフェミニストや悪いクィアといった単純な言葉に還元できない。良いフェミニスト、ラディカルなクィアで居続けるためのコストは、社会経済的な資本に依存しているとしか思えないからだ。

ここで、物質的な抑圧からの解放をもたらす幻想に異性愛的物語が絡む必然性は全くない。だがそうはいっても、プライベートの関係性の中で、性的な欲望の充足を労働として引き受けることは、限られた自分の資本を使って生き延びるために有効な手段となる。わたしには、何人かの生活費をくれるチャーミング王子がいたのだ。友人や、善意ある通行人は、日本という国は、わたしの生活を保証してくれない。親からの仕送りを受けとらず大学生活をやり遂げるためには、わたしに向けられた性的な欲望を駆使し、その幻想を満たすための労働をすることが不可欠だった。これからわたしには更に多くの金が要る。テストステロンによって発達した顔や下半身の手術費用、大学院生という不安定な位置で長大な時間を必要とする研究の遂行と生活費の獲得等、生きるためにお金が必要だ。わたしがいま行っている研究とは、能力的且つ経済的に恵まれた人たちが行える営みだ。絶えず研究業績が求められ、数年間にわたって、365日生産的であらねばならないという強迫観念に襲われながら、生活費を稼ぐための賃労働もせねばならないアカデミアという競争社会で、わたしは生きている。

もちろん、わたしはセックスワークを生存戦略として称揚しているわけではない。全ての労働がそうであるように、セックスワークもまた適切な労働環境が守られなければ、大きな危険を伴う。有色のトランスやゲイ男性たちのボール・ルーム・カルチャーを捉えたドキュメンタリー映画『Paris Is Burning(1990)』(邦題:パリ、夜は眠らない)に登場するヴィーナス・エクストラヴァガンザというイタリアン・アメリカンとプエルトリコ系のルーツを持つトランス女性は、外性器の手術を経て経済的に困窮することのない裕福な白人の異性愛男性と結婚し、郊外に構えた家で、白人のシス女性のように夫に食器洗浄乾燥機をねだる家庭像を思い描き、絵に描いたような規範的幸福を夢見る。クリスマスの日、そんなヴィーナスの死体が発見される。その死は、彼女のクライアントに、トランスであることが見抜かれてしまったことが原因とされている。社会的抑圧が交差的であればあるほど、物質経済的な状況はより困難を極め、行き詰った現在から抜け出すことが出来なくなる。だからこそ、ヴィーナスはここではない場所を夢見ずには居られなかったのだろう。ヴィーナスを単に攪乱的なクィアと対比し、規範的異性愛・白人性に阿るトランスセクシュアルとして劣位に置くだけでは、トランスジェンダーたちが直面する交差的な抑圧と自己の身体との複雑な交渉を理解することは出来ない。アメリカにおける人種・民族差別と、日本における人種や民族や階級による抑圧を並列に語ることはできないが、わたしたちは正しく政治的で正しくあることすら物質的な制約に曝されている。

今ある選択肢の中で、生き延びていくしかないとしたら、わたしはセックスワークに従事する人々がラブホテルで死ななくてもよい労働環境の拡充を求める。日本政府は毎月20万の生活費を支給してくれないし、トランスジェンダーの医療も自費のままなのだから。そして、だからこそ、わたしは自分の身体に惑う。女性的な容姿にペニスという、トランスジェンダーに向けられる典型的な欲望に沿って経済的な価値を生みやすい身体を生きるべきなのか、そこで適切な女性性を自分は体現できるのか。それとも自身にとって望ましい身体改変を追求するのか、自身にとって望ましい身体とはどんな状態なのか。私が生きられる身体の終着点はあるのだろうかと。

わたしたちは自分がいかなる身体に住まうかという選択を絶えず迫られ、その選択は決して社会からの完全なる自由を帯びることはない。トランスジェンダーもシスジェンダーも、限られた条件の中で、少しでもより良い生活を探求し続けていくしかないのだ(もちろんトランスジェンダーは、シスジェンダーよりもさらに、医学的権威や法制度や物理的暴力に命運を左右されるのだけれど)。わたしたちの身体や生活基盤や社会の構造を、アバター設定やゲームの環境設定のように容易に変更できたら……と、27才にして第三次性徴を迎える自分の体を見下ろす。ここでもまた、自分の体が自分でないようだ。

 

<怪物の避難所>

規範的な男や女を逸脱した「怪物」に対する処罰から逃れて生きるために唯一出来る選択肢は、「怪物」である証拠を肉体や歴史から抹消することであるとしばしば考えられる。

外性器、顔の造形、喉ぼとけ、体毛、名前、戸籍上の性別、過去の記憶、思い出、かつての友人、家族、あらゆる証拠をかなぐり捨てる。

しかし、そんなことは可能だろうか。どこまでも迫りくる監視、染色体という目には見えない何かにすらわたしたちの怪物性を見出そうとする人たちの包囲網をくぐり抜ける未来はありうるのだろうか。いつか「抹消した」はずの「怪物」性が何者かに暴かれ、「詐欺師」や「侵入者」と糾弾されることへの不安が拭えない。危険と安全の単純明快な境界線は、この世界に存在しない。

わたしには、怪物が怪物でなくなる未来が想像できない。怪物が怪物として不自由なく生きていける未来が想像できない。

そもそも、怪物の居場所などどこにもないのかもしれない。分類はなんでもいいから、安全に息ができる場所がほしい。

 

<尼寺へ行け>

尼寺に行きたかった、ただ息をするために。

もちろんこれは、現実世界の尼寺ではない。

妊娠出産育児を頂点とする恋愛規範や他者の性的な欲望から逃れ、性別という制度によって罰を受けることなく、ただ互いをケアしあうためのネットワークがほしかった。

中学生の時に目の当たりにした異性愛シス男性教員が女子学生に向ける性的眼差しと媚態や、自身の身体が同意なく第二次性徴を伴って発達していき繰り返しジェンダー化され性的な存在とされることに、わたしは表しようのない嫌悪感を感じてきた。だから高校時代のわたしは、キューピー三分クッキングのキューピーの体の造形に憧れたし、俗世間の醜悪さを拒絶する尼寺を幻想化した。幻の寺で、女性単身の子育てを妨げる地方都市の片隅で苦しむ母と自分を救い出してくれる、より豊かで決して揺らぐことのない社会の揺りかごを与えてほしかった。その尼寺では、主流社会におけるジェンダーと様々な抑圧の交差に抗う人々が集い、全ての人が生きるために必要不可欠なケア労働を分配し合う。そこには、トランスジェンダーが堂々と未来を享受出来ることを示す多様なロールモデルがおり、身体への医療的介入がいかなる変化をもたらしうるかを経験的に共有し、他者に判断されることなく本人が望む医療的介入を無料で手に入れることが出来るだろう。

しかし、わたしの幻想は遮られる。

トランスジェンダーを悪魔化する言葉を浴びる度に、わたしは地の底へと絶望させられる。わたしは「ただ去勢した男」であると判定を受け、危険信号を表す赤いランプとけたたましい警告音とともに、尼寺から門前払いされることになるだろう。幻想上の尼寺さえ、あらゆる差別規範に背を向け生きる場所ではなく、性別というシステムによって分類された正しい女性を審査する場所へと、もはや変貌してしまった。

怪物のための寺はなかったのだ。そもそも、より周縁化され交差的な抑圧を受ける女性たちを迎えいれる尼寺すら、この世界には乏しい。

尼寺のない世界で、怪物に罰に与える権限を持った「揺るぎない男や女である」人間たちの悲鳴がわたしの体を突き刺し、何者にも守られず死ぬ未来がわたしを規定する。わたしの命は、恐らく「正しく生きられる女性」よりも同情に価しない。「守るべき弱き人たち」と、「恐ろしく危険な犯罪者たち」の差異は容易に視認でき、両者は相いれないとされているから。社会の規律を乱す人々は、本質的に残虐な犯罪者と同一視されてしまうから。

観客たちは、後者の死を見世物として面白がるだろう。面白がるな。

わたしはただ、わたしも価値のある人間なのだと承認され、失った自己肯定感を埋め合わせてくれる存在に守られたい。女性たちの生き方を制約し馬鹿にする世界に抗い生きていきたいだけだ。女性とされる存在たちと類縁的な苦しみを持つ者として、抑圧の根源に共に抗うことが出来たらどんなに良いだろう。しかし、わたしはそんな「女」という意味からも程遠い場所に立ち尽くしている。「存在してはいけない者たち」を引きずり込む泥濘に足を取られている。

わたしは未だ存在しない尼寺を探し求め、怪物であるがゆえに社会から追い出された山姥のなれの果てだ。

適切な女性性を生きることができず、人を食らう怪物として畏怖されるがゆえに、俗世から隠匿して生きるのだ。

 

<抹消される未来の約束から、生きられる未来へ>

わたしは夢見る。

わたしを苦しめる約束ではなく、過酷な未来から守ってくれる約束を。

打ち捨てられた山姥たちのためだけに作られた、約束された道を。

道なき道の途中で迷い続けるわたしに、こちらへ、と導いてくれる仲間たちと生きられる世界をどこか別の場所や未来に夢見る。怪物的な山姥たちと共にあるための尼寺を。


わたしは求める。

全てのトランスジェンダーに必要とする医療アクセスを。

存在を否定されることなく生きられる権利を。

排斥を恐れ当て所ない船旅に出た怪物たちがおぼれ死ぬ前に。

今すぐに。


※1……本項では、未来を体現する象徴としての「子ども」と、現実を生きる子供を記述するうえで、表記を書き分ける。
※2……Kafer, Alison. Feminist, Queer, Crip. Indiana University Press, 2013. Muñoz, José Esteban, Cruising Utopia: The then and there of Queer Futurity. NYU Press 2009.
※3……Edelman, Lee. No Future: Queer Theory and the Death Drive. Duke University Press, 2004.
※4……Stockton, Kathryn Bond. The queer child, or growing sideways in the twentieth century. Duke University Press, 2009.
※5……あるいは、月に二度数千円の支出が賄えず、より安価な錠剤でホルモンを補充し、肝臓へのダメージを負うかもしれない。
※6……通称「子なし要件は」、制定当時「現に子がいないこと」とされていたが、2008年「現に未成年の子がいないこと」と改訂された。参議院法制局, 「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律の一部を改正する法律」 (最終閲覧2021年7月29日).
※7……筆者は、手術後なおもエストロゲンやプロゲステロンではなく、テストステロン(アンドロゲン)を補充するという条件で保険適用での手術が出来ないか交渉したが、それは不可能と医師に断られた。なお、ここでは、所謂「女性ホルモン」や「男性ホルモン」という表記を拒絶する。
※8……こちらの問題及び、ホルモン補充療法の保険適用を目指す動向に関しては、gid.jpを参照のこと。日本性同一性障害・性別違和と共に生きる人々の会. 「ホルモン療法を健康保険適用するには」(2019年4月10日).  (最終閲覧2021年7月30日). 
※9……自己の身体に対する自律性と社会制度や人間関係の葛藤に関して、それを中心に書きたいことは山ほどあるが、紙面の都合上、いつか別の機会にしたい。
※10……ここでの怪物は、本質的に否定的な意味を持つ存在ではない。しかし、社会の規律を維持するために、怪物はその境界線を乱すものとして社会的に否定性を付与され続ける存在である。
※11……夜のそら.「夜のそらの終わり、陽の昇らない島」夜のそら:Aセク情報室 (2021年6月).  (2021年7月26日最終閲覧)


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書いた人:キス代
ノンバイナリーのトランス・フェミニン。
大学院でトランスジェンダーと時間に関する研究をしている。
身体を支配・管理の対象とするのではなく、あらゆる人々が自身の身体を受容できるダンスのあり方を模索し、時折ゆにここで「鏡を使わないコンテンポラリーダンス教室」を開催している。
Twitter:@magggart

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